simanomusume78
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(七十八) 愈々試演(マチネー)の始まり
路田梨英は、何処に何をして居るので有ろう。幾度び尋ねても不在である。終に網守子は、置き手紙を残して帰ったが、其れでも何の返事も無い。翌々日更に尋ねて見ると、置き手紙は机の上に網守子が置いた時のままで、手も触れた様子が無い。
多分彼は、先夜逢った時に、是から大いに奮発し、生まれ替わった人に為ると云った様に、今までの生活を捨て、更に奮闘的な生活に入る為に、職業をでも求めて居るのか。其れとも画の材料を求める為に、何処かへ旅行したので有ろう。孰れにしても、手掛かりが無いのだから、今は如何とも仕方が無い。唯自然に分かる時を待つのみである。
この様に思い定めて、網守子は更に次の思案に移った。
梨英一人が居ないが為に、小笛と阿一との事を捨てて置く訳には行かない。阿一の戯曲は捨部竹里と相談した通り、我が家に於いて、試演のマチネーを催し、兎に角も世に出すべき端緒を開いて遣らなければ成らない。
幸いに網守子の心には、非常に面白い工夫が浮かんだ。其の工夫は小笛にも阿一にも、誰にも打ち明けない。只自分の心だけで、蛭田江南を試験するのである。
彼江南が果たして三重の盗人で有るか否か、此の試演席で、自ずから分かることとしなければ成らない。勿論他人には分かるに及ばない。只だ自分一人の心に、其れと見極めが就けば好い。
実に網守子は大胆である。衆人稠座(ちょうざ)《多くの人が集まっている席》の試演会に於いて、人知れず蛭田江南を試して見ることは、或いは眠れる獅子の髯を抜いて見る様な者では無いだろうか。自分から危険を招くのでは無いだろうか。
けれど網守子は少しも危険とは思わないのみならず、自分が非常に面白い喜劇を作り出す様に思い、喜び勇んで其の準備に着手した。但し準備の日限が余り短かったのは残念であるけれど、俄(にわ)か細工の事柄が、却(かえ)って旨(うま)く行く試しも有る。
第一に網守子は初鳥添子夫人に向かい、
「次の火曜日に、試演会を催すので、成るべく多くの友達を誘って来る様に、蛭田江南さんへ頼んで下さい。」
と云った。
此の頼みを伝えられた蛭田江南は、其の試演こそは自分が先の日、失敗と宣告した彼の戯曲の試演であるとは知ら無い。少しでも多く自分の勢力を網守子に示し、網守子の感謝を深くしたいとの一心で、様々の紳士貴婦人を借り出した。
次には従妹藤子の一家族を招き、又次には捨部竹里に、約束の様に成るべく芝居道に関係の有る人々を、招いて呉れと頼み、総計凡そ四十人ほどの客が来ることになった。
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