巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume85

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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        (八十五) 彼の顔

 勿論、蛭田江南は、他の客と同じく、此の部屋へ入るまでは、今夜の試演が、何の試演であるかを知らなかった。他の客は網守子の口上を聞き、番組をも筋書をも読んだ為、やがて何と何を奏演するかを知ったが、彼は後(おく)れ走(ば)せに来た為に、その様なことを知る暇が無かった。

 最初の中は、彼の心は唯路田梨英の下絵に引かれた。此の下絵が、江南自ら自分の絵として世に発表した絵と、殆ど同じ様に見えるから、彼としては、不愉快を感じない訳には行かない。
 けれど彼は、只だ偶然に此の絵が此の部屋に在るに止まり、何も深い意味があるとは、思わなかったで有ろう。

 勿論思う筈が無い。其れに彼は、是くらいの事に驚く様な、気の弱い人間では無い。彼の面皮は此の頃流行(はや)る、特許品の広告の様に、耐風耐水耐火的に出来て居る。

 漸(ようや)く彼の心は、額の絵から戯曲に転じた。人形を使っている男は、自分が過日尋ねた柳本阿一である。其の戯曲は自分が盗み取って、我が物とする積りで、既に自分の雑誌へ暗に予告までした、其の戯曲である。のみならず是を朗誦して居るのは、自分の名誉の源と為っている、女詩人柳本小笛である。

 風にも水にも火にも耐える彼の顔も、此の驚きを包み果たすには耐えなかった。初めは疑いの色が現れた。次には驚きとも成り、又次にはどうしようにも、その思いを晴らす方法の無いこととなったのを感じた。

 若しも、阿一でも小笛でも、心を彼の顔に注いだならば、彼の顔色が、白より赤に、赤より青にと、様々に移り行くことに気が附かずには居られなかったで有ろう。けれど阿一は人形に、小笛は朗誦に、唯一心不乱と為り、最も後ろの方に居る客一人が、何の様な顔をして居るかなどは、心に留める暇が無い。

 実は彼江南が、此の部屋に来て居ると云うことさえ知らない。知っているのは、単に網守子一人である。イヤ、網守子の外に猶(ま)だ一人、其れは小笛嬢と並んで居る、初鳥添子である。添子は何の為とは察することが出来なかったが、自分の良人(おっと)の顔が、穏やかならず騒ぐことを深く怪しみ、怪しむと同様に深く注意している。

 他の客は、眼を人形の動き方に、耳を小笛の朗誦の声に、全く奪(と)られて居る様な態(さま)で、自分等の背後に、誰が何の様に座して居るかなどと云うことさえ、気が附かない。尤も客の中の幾人は、最初蛭田江南が此の部屋の入口に来て立った時に、振り向いて、其れと認めたけれど、今は横にに向く人も、後ろに向く人も無い。是だけは江南に取って幸いで有ろう。彼は自分の心の騒ぎを誰にも知られずに済んだと思った。



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