simanomusume85
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2016.3.26
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
(八十五) 彼の顔
勿論、蛭田江南は、他の客と同じく、此の部屋へ入るまでは、今夜の試演が、何の試演であるかを知らなかった。他の客は網守子の口上を聞き、番組をも筋書をも読んだ為、やがて何と何を奏演するかを知ったが、彼は後(おく)れ走(ば)せに来た為に、その様なことを知る暇が無かった。
最初の中は、彼の心は唯路田梨英の下絵に引かれた。此の下絵が、江南自ら自分の絵として世に発表した絵と、殆ど同じ様に見えるから、彼としては、不愉快を感じない訳には行かない。
けれど彼は、只だ偶然に此の絵が此の部屋に在るに止まり、何も深い意味があるとは、思わなかったで有ろう。
勿論思う筈が無い。其れに彼は、是くらいの事に驚く様な、気の弱い人間では無い。彼の面皮は此の頃流行(はや)る、特許品の広告の様に、耐風耐水耐火的に出来て居る。
漸(ようや)く彼の心は、額の絵から戯曲に転じた。人形を使っている男は、自分が過日尋ねた柳本阿一である。其の戯曲は自分が盗み取って、我が物とする積りで、既に自分の雑誌へ暗に予告までした、其の戯曲である。のみならず是を朗誦して居るのは、自分の名誉の源と為っている、女詩人柳本小笛である。
風にも水にも火にも耐える彼の顔も、此の驚きを包み果たすには耐えなかった。初めは疑いの色が現れた。次には驚きとも成り、又次にはどうしようにも、その思いを晴らす方法の無いこととなったのを感じた。
若しも、阿一でも小笛でも、心を彼の顔に注いだならば、彼の顔色が、白より赤に、赤より青にと、様々に移り行くことに気が附かずには居られなかったで有ろう。けれど阿一は人形に、小笛は朗誦に、唯一心不乱と為り、最も後ろの方に居る客一人が、何の様な顔をして居るかなどは、心に留める暇が無い。
実は彼江南が、此の部屋に来て居ると云うことさえ知らない。知っているのは、単に網守子一人である。イヤ、網守子の外に猶(ま)だ一人、其れは小笛嬢と並んで居る、初鳥添子である。添子は何の為とは察することが出来なかったが、自分の良人(おっと)の顔が、穏やかならず騒ぐことを深く怪しみ、怪しむと同様に深く注意している。
他の客は、眼を人形の動き方に、耳を小笛の朗誦の声に、全く奪(と)られて居る様な態(さま)で、自分等の背後に、誰が何の様に座して居るかなどと云うことさえ、気が附かない。尤も客の中の幾人は、最初蛭田江南が此の部屋の入口に来て立った時に、振り向いて、其れと認めたけれど、今は横にに向く人も、後ろに向く人も無い。是だけは江南に取って幸いで有ろう。彼は自分の心の騒ぎを誰にも知られずに済んだと思った。
a:486 t:2 y:0