simanomusume92
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(九十二) 只は起きぬ
江南は別れを告げて去るに臨み、廊下で柳本小笛嬢に逢った。
直ぐに小声で嬢に向かい、
「貴女は芸術家の徳義を知りません。私へ売った詩稿を、私の発表しない前に、他の人へ示すとは、職業上の作法に背きます。此の様な事はお互いの為に成りませんから、以後はお慎み成さい。」
道理ある言葉の様に感じて、小笛は少し赤面した。けれど江南は、余ほど気が迫(せ)いて居る様子で、唯この様に言ったのみで立ち去った。
是で見ても、如何に彼の心の中が苛立(いらだ)って居るかが分かる。
成るほど売った原稿をば、其の買主が発表しない前に、他の同業者へ示すのは、文士の徳義に欠けるかも知れぬ。けれど同業者へ示すのでは無く、小笛が網守子に示した様に、友誼上自分の親友へ示すのは、別に徳義に欠ける所は無い。たとえ有るとした所で、他人の著作へ、自分の名を署し、自分の作品として世に示すほどは、徳義に背かないのでは無いだろうか。大きな不徳義をする人が、小さな不徳義を責めるとは、随分得手勝手な者である。
それは扨(さ)て置き、此の家を出るやいなや、江南は直ちに車を、我が雑誌の印刷所へ飛ばした。
今まで夜中に印刷所へ行ったことの無い男である。けれど今夜の中に、次号の「新芸術」へ出る小笛嬢の詩を、何うかして置かなければ、来たる土曜日に、自分の詩盗人と言うことが暴露する。彼は種々様々に頭を悩ましている。
幸い印刷所は夜業をして居た。彼は印刷担当人に逢い、原稿に在る自分の名前を消して、小笛嬢の名に書き改め、更に下の様な説明を書き入れた。
「此の詩は寒村網守嬢が、自ら催した試演会にて、独唱せられた者であるが、聞く人は多く余の詩風に似ていると評した。余は評する人の眼力に敬服すると共に、今まで永い間、余が此の作者に加えた教えが、空しく無かったことを喜ぶものだ。
作者柳本小笛嬢は、忠実に余の詩を学んだ結果、終に余の作と誤られるまでの域に上達した。是れは決して余が教訓の宜しきを得たるが為に非ず。全く作者の天才の然らしめる所である。
此の作者に同情し、此の作者を、世に紹介しようとする、寒村網守嬢の美しい親切は、余自ら作者に代わって、深く感謝したいと欲す。余は網守嬢に敬意と感謝の意を表する為に、特に此の詩を、常に余の詩を載する、此の欄内に掲げたものだ。是れは余の大なる喜びである。」
転んでも只は起きない本性が、此の一事にも現れた。
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