simanomusume94
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(九十四) 江南の自信力
網守子の家では、蛭田江南が匇々(そこそこ)に立ち去った後、一同食卓に就き、歓を尽くして分かれたが、阿一の戯曲と小笛の詩とが、傑作であることは、誰一人認め無い人は居なかった。戯曲の方は、孰れの劇場にも予定があるため、今直ぐに其れを変更させて、此の方を興行すると云う訳には行かないけれど、成る可(べ)く興行の運びと為るようにと云う紳士が、幾名も有った。
詩の方も雑誌社へ紹介しようと云う人が、少なく無かった。
先ず是で阿一と小笛との前途は開けた。網守子の此の夜の催しは、充分成功したと言う者である。阿一と小笛は、殆ど涙を流さないばかりの態(さま)で、網守子に謝した。
* * * *
* * *
翌朝、驚く可し、蛭田江南は、人を訪問するには未だ早い十時ごろに、網守子を尋ねて来た。彼は一夜を煩悶に明し、様々に考え廻した末、終に大決心を定めたのである。彼の顔には一夜の大煩悶が現れて居る。色が青くて眼も幾分か凹(窪)んだかと疑われる。其れに総ての挙動が、神経の亢(高)ぶって居る様に見え、何だか落ち着きが無い。
けれど、網守子は今朝早く家出て、国立美術院へ行った。留守である為め、初鳥添子が彼を呼び迎えた。添子は様々の事を知って居る。知らない事は大抵推量して居る。昨夜江南が如何に驚き、如何に当惑したかも、一々に見て取った。今朝の訪問も大抵は仔細を察し、
「貴方は、網守子一人に逢い度いのでしょう。」
江南は隠しも飾りもしない。
「其の通りだ。先日和女(そなた)に話して承諾を得た事を、愈々実行しなければ成ら無い場合に差し迫った。」
添「と云うのは、網守子へ縁談を申し込む事ですか。」
江南「そうよ。」
添「今朝が、貴方は好機会だとお思いですか。」
江南「好機会だか何だか知ら無いけれど、もう一刻も猶予が出来無い。何でも早いだけが好い。」
添子は呆れた態(さま)で江南の顔を見詰め、
「貴方は昨夜、彼(あ)の様に網守子に当擦(こす)られたのを知りませんか。」
江南「ナニ、網守子が私に当擦った?。其の様な事は無い。」
添「イイエ、私は、貴方の知ら無い事まで知って居ますよ。何も彼も私には分かっています。貴方の絵に良く似た額の掛かって居たのも、柳本小笛の詩を独唱したのも、阿一の戯曲を試演したのも、皆貴方への当擦りです。」
当擦りと言うのは、少々見当が違うけれど、其れにしても添子は実に良く観察して居る。
江南は目から鼻へ抜ける様な男であるけれど、非常に自惚れが強い為に、自分の身に関する事は却って思い違いが多い。世に言う灯台下暗しでも有ろうか。昨夜の事なども網守子が故意にしたこととは思わない。唯偶然出たと信じている。
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