巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune1

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.10.25

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

      

      捨小舟  前編   涙香小史 訳

 

                   一

 今より三十余年前、クリフと称する英国の或る港に、水夫倶楽部と綽名(あだな)される酒店があった。出る船、入る船の船長、水夫が、強い酒に腸(はらわた)を洗い、手柄話に海上の労を忘れる場所なので、店の内は唯酒の臭い、煙草の煙、洋灯(ランプ)の油煙に咽(む)せ返る程だが、生涯潮風に揉(も)まれる身は、それほどとも思わないのか、宵の頃から引きも切らない程の繁昌である。

 夜のまさに九時とも思われる頃、ここに来る一人は、親船の船長と覚しく、背高くして、筋骨逞しく、顔は殆ど銅(あかがね)の色をして、年も四十に近く見えるが、もし日に焦げた其の色を洗い落とせば、まだ三十を多くは越えていないと思われる。歩み入って最も手近にある腰掛に、非常に大らかにゆったりと腰をおろし、誰か知っている人は居ないかと思う様に、静かに四辺(あたり)を見回す様子は、人に使われる人では無くて、確かに人を使う人である。

 調理場からこの様を見る店の主人は、一目で金目の客と踏んだ様に、早や給仕に御用を聞けと命じる為にだろう、急がしく店の方に眼を配ったが、生憎(あいに)く、どの給仕も外の客に急しい折からで、手の隙(す)いている者が見えないので、主人自ら出て来て、この様な店には不似合いなほど丁寧に頭を下げ、

 「今度の航海は毎(いつも)より余ほど長くお掛でした。定めし沢山の儲(もう)けがお有り成さった事でしょう。」
と云い、黒い顔に猶更(なおさら)目立つほど、白い歯を露出(むきだ)して笑う様子は、久しくこの客を知っているかの様子だが、実は知っているのでは無い。もしや幾度か、この店へ来たことがある人であるかも知れないので、失礼にならない様、用心してこの様な挨拶を吐くものに違いない。

 客は騒がずに、更に四辺を見回しながら、
 「オオ、久しく海に居た為に確とは月日も覚えて居ないが、今日は何でも三月のーーー。」
 言い掛ける後を取り、
 主「ハイ、三月の五日です。」
 客「では今日だ。今日が約束の日か。誰か俺を尋ねて来た者は無かったかナ。」

 主人は、はたと困り、
 「エエ、貴方様、左様ですネ。色々の方を尋ねて来る人は毎日幾人も有りますが、エエ、貴方様のお名前はツイ失念致しまして、口先に転々(ころころ)して居るけれど、出て来ません。」

 客は非常に笑(おか)しそうに、
 「亭主、中々世辞が好いなア。失念したのでは無い。俺の名を知ら無いのだ。俺は此の店へ来るのは初めてだよ。自分の名を言わず尋ねたのは、俺の抜かりだった。俺の名は立田と云うのだ。誰か第二立田号の船長立田と言って俺を尋ねて来た者は無かったか。」

 亭主は極まり悪そうにもせず、
 「アア、立田様、成る程この店ヘは初めてダ。道理デお見外(みそ)れ申して居ました。」
と辻褄(つじつま)の合わない返事をして、更に、
 「イヤ未だ尋ねては見えません様に思いますが。其の方はどの様なお方ですか。」

 客は納得が行か無い様に、
 「イヤ、其の者は第一立田号の船長心得で、横山と云う者だ。俺が米国の方へ航海して居るウち、横山は東洋へ航海し、久し振りで英国へ帰るから、三月五日にクリフの水夫倶楽部で逢うと、先々月俺の船に手紙を寄越した。約束を違える男では無いが、ハテ、背が低くて此の上無い正直者で。」

 主「では多分、今にお見えに成りましょう。それまで何か一口召し上がって、お待ちなされば。」
 客「そうだ。何か強い酒を持って来い。」
と命じ、第二立田号の船長立田は頑丈な時計を出して、時間を眺め、
 「早や九時だ。何でも二月の末にこの港へ着くという約束だから、もう充分来て居る筈なのに。」

 其の中に主人は壜(びん)の口を抜いて持って来て、是を立田の前に置き、何でも第二立田丸の船長立田と言えば、第一立田丸と云うのもこの人の所有に違いなく、既に第一立田丸で充分に金を儲け、更に第二の船を作り、自ら其の新しい船に乗り、古い第一は雇い人に任せてあるに違いない。

 米国の航海から帰ったと言えば、きっと懐中も豊かであるに違いないなど、それとは無く、値踏みをする様子であったが、忽(たちま)ち何事かを思い出したと見え、
 「イヤ、少しお待ち下さい。」
と云い、急いで勘定場へ立ち去ったが、頓(やが)て莞爾莞爾(ニコニコ)と笑い乍ら一通の手紙を持って来て、

 「イヤ、一昨日、此様な手紙が届いて居ます。表に留め置きと書いて有りますから、多分受け取る方が其の中に見えるだろうと、帳場へ預かって置きましたのを、ツイ忘れて居ました。」
と差出した。
 立田は受け取って之を見ると、成る程、
 「水夫倶楽部留め置き立田様」
と宛てて有り。確かに待ち受ける第一立田の船長心得横山と云う者の筆蹟なので、封を押し開いて、一息に読み終わり、

 「アア、途中で降ろす荷物が出来、それが為、手間取るから、十日で無ければここへ着か無いと書いてある。久し振りに彼の正直な顔を見て、手を握って一杯飲もうと思って来たら、十日で無ければ、エエ、このような残念な事は無い。」
と非常に失望する有様は、思う事を胸に包まない、この様な人の常とは言え、其の横山と云う者を、無二の友として慕って居る事も知られる。

 亭主は得たりと喜ぶように、
 「イヤ、十日と云っても最(も)う直です。二階に空いた室(へや)が有りますから、それまでここで御逗留成されーーー。」
 客「仕方が無い。そう頼もう。」
と云い、全く覚悟を決めた様に、硝盃(コップ)を取って一息に飲み乾したが、此の時、隣の一間から嚠喨(りゅうりょう)《弦楽器の音が冴え渡る様子》として洩れて来る提琴(バイオリン)の音と共に、非常に優(しと)やかな音調で、唱(うた)い出す若い女の声が聞こえて来た。

 浪の音、風の声には少しも感じない船長ではあるが、この優(しと)やかな歌の声は、殆ど魂の底までも響く様に思われて、その儘(まま)硝盃(コップ)を下に置き、目を細くして聞き惚れたが、頓(やが)てその歌が終ると共に、我に復(かえ)り、

 客「亭主、今の歌は誰が唱(うた)う。」
 亭「毎夜この店へ稼ぎに来る少女ですよ。次の間で一曲済みましたから、今にここへも来るでしょう。」
 云う折りしも、非常に老い耄(ぼ)れの老音楽師の手を引いて、次の間から静々と出て来たのは、年十五、六と思われる一少女、客の注文を待つ様に、閾の此方に立って居たが、垢に染まった衣服を纏(まと)い、殆ど見る影も無い迄に零落(おちぶ)れた姿ではあるが、唯其の容貌の可憐にして非常に美しいのは、天から降りた仙女かと思う程なので、船長は怪しんで茫然としているばかりだった。


次(第二話)へ

a:280 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花