巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune125

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.26

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                   百二十五
 
 暫(しばら)くして覆面婦人が唱い始めるのを聞くと、是れ全く広い世に二人とは有り得ない園枝の声で、而もその歌は園枝がかつて、常磐男爵の家で、客の所望に応じ唱った歌である。声の爽やかにして節の非常に巧みなのに、満場の聴衆は身動きも為し得ない程であるが、中でも男爵は又一層深く感じ入り、殆ど長くは聞くことが出来なかった。

 胸に湧き出る様々の物思いに、幕半ばにして早や疲労を覚え、密に小部石大佐を振り向くと、大佐も園枝の身の上を彼是と思い遣ってか、眼に涙を浮かべていた。男爵は細(ささや)き声で、
 「老友、私はもう帰るよ。」
と云うと、大佐の眼も、
 「それは好いだろう。」
と答えて居るようだった。

 是から男爵は幕の終わるのを待ち兼ね、連れて行った従者に、再び大佐の椅子を担がせ、殆ど逃げる様に此処を立ち出でて、旅館へと引き上げて、独り一室に引き籠ったが、思えば思う丈、園枝の心中は憐(あわ)れまれるばかりで、又愛されるべきものだった。

 彼かつて我に向い、常磐家を立ち去っても、男爵の名前に関わる様な事はせず、世間の何人にも知らせずに、世を送りますと云ったが、今は厳重にその言葉を守っているのだ。舞台の上に出てまで深く顔を包み、身分を隠すのは、我が家名を重んずる者にして、一旦常磐男爵夫人とも云われた身が、音楽を以って世を渡る境涯にまで落ちたとあっては、我常磐男爵の身分にも障(さわ)る訳なのだ。

 これ程までに操の堅い者、今の世に又とは無い。我何と云って我が過ちを詫び、彼をして元の男爵夫人に復(か)えらせようかなどと、空しく心を砕き、又思えば彼幸いにも音楽を以って是ほどの評判を得る身と為ったので、給金とてもきっと、通例紳士と云う人の所得も及ば無いほど、莫大の高に違いない。

 そうだとすると、彼が産んだ我が娘も、今はきっと不自由なく育てられて居るに違いない。如何ほどに成長した事だろう。きっと母にも似、又常磐家代々の血筋にも似て、美しく愛らしく真に貴族の姫君として、世に誇るに足る程なのに違いない。可愛や、我が一旦の過ちから、今日が日まで、父の顔さえ知らずに育ててしまったことは、是も今更仕方が無い。

 唯この様な可愛い子がある為、園枝も舞台に上る事となったのに違いなく、又この子のために必ず、過ぎた我が過ちも許し、喜んで元の身に立ち返えるだろうなど、男爵はこの夜一夜を思い明かした。
 翌日は仕度さえ匆匆(そうそう)に、彼の劇場の興行主を尋ねて行き、覆面婦人の住居(すまい)を聞くと、座主は事もなく打ち明けるに違いないと思いの外、是ばかりは大事な秘密であって、何人にも告げられないと断った。

 さてはその住所を知らせては、外の座主から、給金を割り増しして、雇い去られる恐れがある為、この様に秘密にするものだろうと、男爵は早くも察し、我が素性を知らそうかと思ったが、覆面婦人の良人(おっと)と知れては、猶更連れ去られる恐れがあり、益々堅く秘するかも知れないなどと思い、単にその身が覆面婦人の音楽に心酔し、どうか唯一度直々に婦人に逢い、婦人の為を謀りたいと望むだけであり、又他意も無い由を述べたが、興行主は充分男爵の言葉を信じた様子ではあるが、何人に限らず是ばかりは知らさ無いと言い張るので、何が為左程まで隠すのだと押して問うと、其の秘する仔細さえ、他言することは出来ないと言って、応ずる景色も無い。

 しかしながら、男爵の非常な熱心にして、容易に立ち去る様子も無いのを見て、今は仕方がないので、其の仔細だけは語ろうと云い、実は初め雇い入れの時、その住所は何人にも知らさないと堅く約束を定めて有り、若し一人たりとも覆面婦人の許を尋ねて行く者があれば、婦人は興行主が人に知らせたものと見て、その日限り劇場へ出席を断り、この土地から立ち去るだろうと云い、興行主も堅くこの約束を守ると誓って雇ったので、決して他言は出来ないと言う。

 男爵は園枝の用心が一方ならず堅固なのを感じ、返す言葉もなかったが、更にこの興行主は、如何ほど迄園枝の身の上を知って居るのかと、言葉を廻して問い試みると、興行主自らも少しも覆面婦人の何者なるかを知らなかった。

 その雇い入れの次第と云うのは、或る日この興行主の許へ深く面(かお)を包んだ婦人が来て、試験の上で雇い入れては呉れないだろうかと云い込んだ。興行主は今迄この様な云い込みを受け、試験をした事も度々あるが、履歴の分からない者に、役立つ者の有った例が無かったので、その儘(まま)断ったが、その婦人の立ち去る姿が如何にも優美に見えたため、若しやと思い呼び留めて試験して見ると、立派なる音楽師にして、而も何十年来聞いた事も無い程の主唱音楽の技量と見たので、この折宛も新興業を目論む際と云い、他の座主に雇い込まれては一大事と思い、覆面婦人の望みより輪を掛けて充分な約束を定めて雇い入れ、更にその後の評判が高くなり、揚がり高の増すに従い、益々給金を上せつつあったのだった。
 この様な次第なので、覆面婦人の素性はさて置き、その素顔さえ、興行主自ら見たことが無いと云った。

 男爵は茲(ここ)に至り、何うすることも出来なかった。更に我が認(したた)める一通の手紙を覆面婦人に渡して呉れと云い、莫大な報酬をさえ申し出たが、興行主は手紙の取次ぎは約束の一か条に堅く禁じられて有ると言い、頑として受け付けなかった。

 最早や何も彼も是迄である。巧みな探偵吏を雇い、婦人の住所を探らせる方法しか無いと、男爵は力を落として決心しつつ、すごすご興行主に分れて去った。


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