巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune129

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.3.1

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

              百二十九

 男「夫婦で有った事さえも忘れたとは、情け無い事を云う。コレ、園枝、和女(そなた)との夫婦の縁は、未だ表向きは切っては無い。矢張り元の夫婦だ。」
と身も世も忘れて男爵は只管(ひたすら)に嘆き口説いた。
 若し男爵にして、未だ一点心に、昔の様な血気があったならば、一婦人の前にこれ程迄、身を遜降(へりくだ)って打ち嘆く事は無かっただろうが、男爵は続く不幸と後悔とに、気力を全く折れ尽して仕舞い、何の我慢も剛情もなく、園枝を元の身分に復(かえ)さなければ、死ぬにも死なれず、生きて居るにも居られ無いと迄思い込んでいるのだ。

 園枝は何の感じも無く、更に全くの他人に云う様な語調で、
 「元の夫婦だと仰(おっしゃ)っても、良人(おっと)の目褄(めつま)を忍び、不義の男を拵(こしら)えて、其の果てが良人を毒殺しようとまで企んだ、世にも恐ろしい不貞不義の女が、どうして元の夫婦になられましょう。」

 男爵はこの一語に、園枝の顔を仰ぎ見ることが出来なかった。顔を両手に蔽(おお)い隠して、
 「オオその様な事はもう云って呉れるな。私は身を切られるより辛い。それだからこの通り後悔もし、詫びも云うのだ。和女ほどの貞女は又とない。それを彼是疑った我が身の愚かさに、私はもうその様に云われ無くても、自分で愛想を尽かして居る。もう一度和女に廻り逢い、充分詫びなければ済まないと云う心さえなければ、もう疾(とっ)くに自殺して居る。五十と云う年になり、浮世の道を踏み過(あやま)ったこの老夫に、何の生き存(ながら)えて居る楽しみが有ろう。唯和女を尋ね出し、私の過ちから失った、和女の幸福を償い、一日でも和女を元の身に返し度い計(ばか)りに、まだ死に切れず迷って居る。園枝、園枝、恨みは口に尽きないほど有ろうけれど、許して呉れ。」
と云い、後は園枝の膝に泣き伏せたかと、疑われる許(ばか)りに声も無く動きもしなかったが、園枝は更に泰然と落ち着いているばかりだった。

 男爵は暫くにして、またも息を継ぎ、虫の泣くほど細い声で、
 「和女と私とは切るにも切られない夫婦ではないか。過ちは過ちとして、両者(ふたり)の仲へ娘まで出来た仲ではないか!」
 園枝は明らかに、
 「アノ娘(むすめ)がどうして貴方の子で有りましょう。あれは私と密夫との間に出来た子です、ハイ、貴方の目褄を忍んで出来た不義の子です。」
 
 男爵は茲(ここ)に到り、一語をも発することが出来なかった。よよと許(ばか)りに声を飲んで泣き臥(ふ)しながら、非常に 為す術(すべ)が無い息使いの間から唯、
 「和女に少しも不義は無い、許して呉れ、許して呉れ」
と云う声が、途切れ途切れに聞こえるだけだった。

 アア男爵は、初めから何の悪意も企(たくら)みも無い、非常に正直な君子なのに、唯其の心が狭くて、一旦罪も無い妻を疑ってからは、悪人が其の暇に乗じて、詐謀(わるだくみ)を逞(たくま)しくし、嵩じ嵩じてこの悲しむべき有様にまで陥ったことは、自ずから犯した過ちとは云え、又憐れむべき限りと云える。

 園枝は更に我慢して、非常に静かに控えて居たが、この様に男爵がその身の過ちに悔い入って、顔も上げることが出来ないで、泣き沈む様に逢っては、無情な木石では無い身なので、何時迄心を動かさないで居る事ができようか。

 娘を不義の子と云い切った一言に、積り積った多年の恨みは吐き尽した心地がし、それに其の語を聞いて、男爵が更に怒ろうとする様子もなく、更に益々詫び入る様子なのを見ては、我が身に掛かった数々の疑いは、男爵の心の中では、悉く消え尽くしたのを知り、弛(ゆる)めないようにしようとはしたが、自ずから気が弛み、唯
だ何となく悲しさが胸一杯に込み上げて来て、殆ど声を放って泣き出そうとする程だったが、泣いて治まるべき場合では無いので、必死の思いで、自ら堪(た)え、又も静かに考え廻すと、恨みは既に吐き尽くして胸に空しく、唯哀れを催した折柄なので、心は自ずから優しい方にばかり向った。

 実に男爵は、広い世界に唯一人の恩人である。男爵と結婚したため、この様に重ね重ねの不幸に陥ったとは云え、若し男爵が居なかったならば、我が身は遥か以前に、石畳の上に飢え凍えて倒れ死んでいただろう事は必然である。今日一人前の女として、不足なく世を渡られることは誰の為だ、男爵が我が身を救って、費用に構わず、教育を施したからこそだ。死んでも男爵の恩は忘れ無いと堅く心に誓ったのは、僅か数年前の事である。恩のため命をも捧げようと思った身が、この上男爵を苦しませては済まないと、この様に 思い出すのに到ったので、未だ泣臥せている男爵を我が膝から扶(たす)け起し、胸に集まる一切の思いを抑えて、唯親切な口調で、

 「イイエ、その様に仰らなくても、もう一切の恨みは解けました。私の口から貴方の罪を許すなどとは勿体無い。何も貴方のお身に、私へお詫びなさる様な過ちは有りません。何も彼も悪人のした事です。其の悪人の仕業に掛かり、貴方も苦しみ、私も苦しみましたのは、お互いの不幸として互いに断念(あきら)める外は有りません。何の恨みに思いましょう。」

と明らかに云い切った。アア他人の過ちを許すのは、人たる者の道とは云え、誰が園枝の様に、この様に心寛(ひろ)く過ちを許し、これ程まで潔(いさぎよ)く、恨みを忘れることが出来ようか。男爵は驚いて、未だ乾きも遣らない目を見開き、
 「オオ恨みを忘れ、過ちを許して呉れるか。有り難い、有り難い、私はもう死んでも好い。」

と云いながら、園枝の手を取って接吻し、又も泣き入る程に見えたが、更に喜ばしそうに、頭を上げて、
 「そうして元の通り夫婦になって!」
と云い掛けるのを、園枝は皆まで言わせず、
 「イイエ、私と貴方の間は、再び夫婦と云う事は、どうしても出来ません。」



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