巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune101

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.2

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 百一

 皮林が小浪嬢に授けようとするのは、如何なる秘術だろう。皮林は徐(おもむろ)に説き起こし、
 「今私が貴女に授けようと云うのは全く一種の魔法です。」
 嬢「エ、魔法」
 皮「ハイ、愛情の消えて居る人に、急に愛情を起させ、燃えるほどにその愛を熾(さかん)にさせる術ですから、魔法に違い有りません。唯昔の魔法は、祈祷とか禁厭(まじない)とか云う様な、不道理千万な術で、人を迷わすことに止まりましたが、私の云う今の魔法は、理学化学の道理から割り出して研究を重ね、何うしても斯(こ)うならなければならないと云う、物質の原則を適用したものですから、百発百中です。

 何の様な学者に見せても、決して無理とは云いません。唯深く理学化学の奥妙を知らない人は、其の道理が分ららない為め、効能だけ見て驚いて、魔法だろうと云うのです。」
 嬢は此の高大な前置きに目を見張り、

 「ヘヘエ、その様な方法が有りましょうか。尤(もっと)も化学とは、殆ど魔術の様なもので、知らない人が見れば、全(まる)で不思議なこと許(ばか)かりだとは聞きますけれど。」

 皮「そうです、化学の作用は、知らない人が見れば、大抵魔法の様な物です。水から火を出す事も出来、冷たい物から熱を発する事も出来ます。此の道理を一歩深く究めて行けば、化学の作用を人の心に応用し、憎しみの心を忽(たちま)ち愛に変じさせ、愛を憎しみに変じさせる事も充分出来ます。即ち私が今貴女に授けようと云うのは、愛の無い男爵に、漸々(だんだん)愛情を起させると云う、化学上の最新の発明です。」

 嬢は皮林の秘伝とは、きっと男爵に対する、何かの掛け引きだろうと思って居たのに、化学の作用と聞いては驚かざるを得ず、
 「ヘエー、化学の力を人の心に入れる事が出来ましょうか。」
 皮「出来ますとも。先ず手近い道理から申しますが、医者の用いる薬と云う物は、総て化学師の製した物ですよ。」

 嬢「それは爾(そう)でしょう。」
 皮「所で或る薬は、眠くも何とも無い人に、直ぐに眠らせることが出来ます。それですから、愛情のない人に、急に愛を起させるのも、眠気の無い人に、急に眠気を起させるのも、其の道理は一つで、少しも違った事は有りません。私は充分に修業を経た化学師で、以前から此の道理に気付き、数年の間、試験に試験を重ねましたが、漸(ようや)く非常に微妙な液体を二種類だけ発明しました。一種は嫉(ねた)みの心を起させ、一種は愛の心を起させます。」

 そうすると、其の液体の薬を男爵に呑ませて、其の愛を引き起こすのだろうと、嬢は漸(ようや)く合点すると共に、又異様な恐れと疑いとを起したので、暫(しばら)く返事をする事が出来なかった。
 皮林は嬢が何か疑っていると見て、更に落ち着き、
 「もっと分りやすい例を申しますれば、或る薬液は力の強い人の手足を一時に麻痺(しび)れさせ、何の力もない様にする事も出来ますが、又夫(それ)れに反対する或薬は、忽(たちま)ち其の麻痺れた手足に、元の通り力を附ける事が出来ます。是はもう極々容易(たやす)い事で、何処の医者でも知って居ます。貴方も聞いた事は有りましょう。」

 嬢「ハイ、麻痺(しびれ)薬で人の感じを止めて置いて、其の間に治療するなどと云う話は幾度も聞きました。」
 皮「サアそれです、力を失わせて、又其の力を元に戻すことは何よりも易い事で、今男爵の場合が丁度之と同じ事です。男爵は決して愛情の無い人ではありません。ツイ半年ほど前まで、非常に園枝を愛して居ました。所が一時の不幸の為め、其の愛情が麻痺(しび)れて仕舞い、今もまだ全く力を失って居ますから、其の力を呼び戻し、元の通り愛情の盛んな人にするには、そうですね、二月とは掛からないでしょう。」

 云いながら、皮林は一個の非常に小さい硝子瓶(ガラスビン)を取り出し、
 「此の中に入って居る液体が、即ち其の愛情を呼び起して、元の通り盛んにする薬です。之を一日に一滴づつ、男爵の食べ物又は飲み物の中へ入れて、三十日飲ませれば、男爵は追々に愛情を回復しますから、其の時に貴女が男爵の傍に居れば、其の愛情は遠い人を捜し求める暇が無く、必ず貴女に向かって来て、心底から貴女を愛し、一刻も貴女の傍を離れない様になり、貴女を妻にしなければ、生きて居る甲斐もないと思う様になりますよ。」

 事の道理は何うやら合点が行ったけれど、嬢はまだ恐ろしい疑いが、其の胸間に徘徊(はいかい)して、心が穏やかで居る事が出来ない。恐る恐る非常に微(かす)かな声を発し、
 「男爵の知らない間に、其の薬を男爵の食べ物に垂らし込むなどとは、何だか犯罪の様な気が致しますが。」

と云う中にも、嬢の胸は高く騒いで波打つことは、其の声が震える様子から察せられる。皮林は充分に保証する様な音調で、
 「何で犯罪に類しましょう。愛情は人の最大幸福で、其の愛情の力を、男爵に附けて遣ろうと云うのですから、この上もない功徳です。」
 嬢はまだ安心せず、
 「もし害にでもーーーー。」

 皮「何で害になりましょう。愛情を麻痺(しび)れさせる薬なら、害になるとも云えますけれど、麻痺れた愛情を、元の健康に復(もど)す薬ですもの。身体の何処の部分にも、効くことがあっても、少しも害は有りません。嘘と思うなら、貴女が少し飲んで御覧なさい、唯気持ちが爽然(さっぱり)する丈で、少しも害は有りません。非常に高い薬で、此の一瓶が殆ど幾百ポンドにも当りますから、無駄に飲むのは勿体無い気が致しますが、夫(それ)でも先(ま)ア、念の為に手の掌(ひら)に滴して、飲んで御覧なさい。」
と非常に軽く言い放って、其の小瓶を嬢の前に差し出した。


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