巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune102

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.3

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 百二

 「試しに飲んで御覧なさい。」
と云う口調で、皮林は非常に軽く言い放ち、薬の小瓶を小浪嬢の前に差し出す。嬢は恐ろしい疑いが、何となく胸の辺に徘徊する折なので、思わず一歩其の身を退き、返事もする事が出来ずに、皮林の顔を見るばかり。皮林は初めて其の心を悟った様に、

 「アア、分りました、貴女は此の薬を、若しや毒薬では有るまいかと、この様に思うのですね。アハハハハ。」
 嬢「イエ、爾(そう)でも有りませんけれど。」
 皮「之は可笑しい、併し見も知らない薬ですから、爾(そ)う思うのも尤(もっと)もです。ドレ、私が飲んでお目に掛けましょう。」
と云い、瓶の口を開いて、中の液体を己が手の掌(ひら)に垂らし、躊躇もせずに飲み尽くし、

 「勿体無い、一滴でも四、五円に当りますから。」
と云い、宛(あたか)も甘い物でも舐める様に、更に其の手の掌(ひら)に残る余液を、舌で綺麗に拭い尽くし、
 「サア、私は今十滴ほども飲みましたが、コレ此の通り、身体の那辺(いずれ)の部分も平気です。却(かえ)って心持ちが快(よ)くなった気が致します。一時に十滴飲んで何の害も無い薬が、一日に一滴飲んだからと云って、何の害を致しましょう。

 幾等強い酒でも、日に一滴づつ飲めば、十年呑んでも酔わないのと同じ道理で、縦(よ)しんば毒薬にした所が、一滴づつでは害をする力は有りません。況(ま)して此の通り毒薬ではないのですもの、サア、是で貴女の疑いは晴れたでしょう。既に毒薬で無いとすれば、之を男爵の食物へ、一滴づつ垂らし込んだ所で、決して其の所業が犯罪に類するなどと云う恐れは有りません。」
と証拠を示して明白に言い聞かされ、嬢は今迄の恐れも疑いも全く晴れ、大いに安心した語調で、

 「成る程、害の無い事は分りましたが、併し本当に効能(ききめ)が有りましょうか。」
 皮林は驚いた様に、
 「エ、効能、貴女は化学師としても、私の技量を疑いますか。実に私が一生の知力心力を尽くして製し上げた起愛剤です。効能の無い者を何で故々(わざわざ)茲(ここ)まで持って来て、貴女に頼みに来ましょう。学理の上から、何うしても、愛の心を呼び起さなければ成らない様に調合して有りますから。」

 嬢「でも実地にその効能を、試した事は無いのでしょう。」
 皮「オヤ、貴女が爾(そう)までお疑い成されば、私は最(も)う此の相談を取り消して、此の儘(まま)立ち去るばかりです。立ち去って仏国(フランス)へ行き、男爵が再び同国へ立ち寄るのを待って居れば、仏国には、随分と何の様な事をしてでも、男爵夫人に成りたいと云う女が有りますから、私は此の薬をその様な女に与え、自分の目的を達します。

 私の目的は、何うしても貴女を男爵の妻にしようと云うのでは無く、誰でも男爵の愛する婦人を拵(こしらへ、其の婦人を男爵の妻にしようと云うのですから、誰にでも施す事が出来るのです。唯先ず今の所で貴女が男爵の近くに居て、熱心に運動して居らっしゃるから、両方の為だと思った丈です。」
と云い、早や見切りを附けた様に、瓶に蓋して、元の様に、衣嚢(かくし)の中に納めようとする。

 嬢は茲(ここ)に至り、宛(あたか)も手の中の珠(たま)を取り去られる心地がし、遽(あわただ)しく進み出で、
 「アレ、何も貴方を疑うのでは有りませんが、唯参考までに、今迄実地に用いた事が、有るか無いかを問うた丈です。」
 皮林は漸くに機嫌を直し、

 「イヤさう仰(おっしゃ)れば私は打ち明け序(ついで)に大事な秘密迄打ち明けましょう。実は此の薬は私自身で実地に充分試験をしたのです。」
 嬢「ヘヘエ、誰に対して試験しました。」
 皮「園枝夫人にサ。」
 嬢「エ、エ」

 皮「実は永谷礼吉が男爵と園枝夫人との婚礼を深く恨み、何うか園枝を追い出し度いと云い、先刻もお話し申した通り、莫大な報酬を約束して、私に頼みましたから、私は茲(ここ)こそ此の薬の試し所と思い、男爵の家に行ってからは、折の有る度に、或はコーヒーの中に垂らし、或は菓子の表面に塗るなどして、気永く園枝夫人に飲ませましたが、其の結果は私が申す迄もなく、貴女が能(よ)く御存知です。

 乞食から男爵夫人に取り立てられ、この上なく喜んで居る園枝夫人が、僅か数ヶ月の間に其の身代を捨て、良人を捨て、義理名誉も栄華も捨てて、私と駆け落ちする迄に成った、是が通例の事柄と云われましょうか。貴女は常に私が園枝夫人の事に気を附け、夫人が歌を唱(うた)って咽喉が乾いたと思う時分には、必(きっ)と私が何か飲み物を持って行って宛行(あてが)ったのを気付きませんでしたか。」

 嬢「成るほど爾(そ)う云えば其の通りでした。」
 皮「私はアノ度に此の薬を用いましたが、実に効能の非常なのに、自分ながら驚いて、此の薬には魔力が有るかと疑いました。」
 嬢は全く感服し、
 「アア、園枝夫人が、貴方と駆け落ちする迄に成ったのは、爾(そう)ですかネエ。其の薬の力ですかネエ、私も何でアノ夫人がアアまで貴方を愛するかと、真に不思議に思いました。」

 皮「では私の言葉を信じ、此の薬を男爵に用いますか。」
と云い、再び取り出したのは、前と同様の瓶ではあるが、たった今皮林が自ずから飲み試した、無害のものとは全く別なものである。嬢はこの様な事も気付かず、今は自分から進み出で、
 嬢「ハイ、何うか用いさせて頂きましょう。愈々(いよいよ)事がなった上は、代価は二倍にも、三倍にもして。」

 皮「ハイ、貴女の気の済む様に報酬して貰いましょう。」
 嬢「ですが何うして用いれば。」
 皮「イヤ、何うしてでも、一日に一滴づつ飲ましさえすれば利くのですから、其の用い方は、唯貴女の機転に任せて置きます。」
と云い、瓶を嬢の手に渡し終わったので、嬢も受け取って、大事に衣嚢(かくし)の中に収め、胸を躍らせて別れ去った。

 此の瓶の中の薬は「遅き毒薬」(スロウ・ポイゾン)として知られる、毒薬の一種であるとは、後に至る迄分らなかった。


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