巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune105

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.6

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                  百五

 朦朧(もうろう)として枕辺に現れ立つ幽霊の様な人影、何処からこの獄舎に入って来たのだろう。更に其の者、非常に微(かす)かな声を発し、
 「園枝、園枝」
と呼ぶに至っては唯恐ろしさに、園枝は全身に水を浴びた様に震いすくみ、上げた首を忽(たちま)ち腕組みの中に埋め、また仰(あお)ぎ見る事は出来なかった。

 其の間に此の怪しい人影は、園枝の身の近く近く寄って来て跪(ひざまづ」)き、何やら携(たずさ)え持つ小道具を、手先で振り回すと、其の小道具の一方から、パッと光明(ひかり)を発し、一時に獄舎の闇を照らした。これは泥棒などの携え持つ、忍び提灯の一種で、蓋(ふた)を閉じれば闇となり、開ければ忽ち光りを放つ物である。

 この様な品物を用意しているからは、闇に徘徊(さまよ)う幽霊では無く、闇には一歩も徘徊(さまよ)う事が出来ない活(い)きた人間の曲者であることを知る。曲者は俯向(うつむ)いている園枝の姿を、灯明に照らして、つくづくと打ち眺め、

 「オオ可哀相に長く牢屋に繋(つな)がれる為とは言え、見る影もなく衰えた。コレ園枝、何も恐ろしいものじゃ無い。此の声で分かって居るだろう。久しく逢わない和女(そなた)の父だ。コレ、顔を上げて呉れ。父だ、古松だ。」

 父とは云えど父ではない。幼い頃から我が身を不義非道に引き入れようとし、折檻し、打擲(ちょうちゃく)し、無理やりに父よ父よと呼ばせた人非人、汝(なんじ)の振る舞いの穢(けがら)わしさに、汝の家から逃げ去って、今は何の縁も無いのに、まだ自ら父と称し、獄屋の中にまで我が身を追って来たのか、否(いや)これは恐ろしい夢の続きに違いない。我が身はまだ夢から覚めないのか---。

 園枝は自ら訝(いぶか)って、漸(ようや)く腕組みを解き、其の中から上げて来る顔の面に、眩(まば)ゆく、忍び提灯の光りが照らすのを見ると、実に是半年前まで常磐男爵夫人として、晴れ輝いた其の同じ面影とは思われない。久しく日の目を見ない獄中の人の顔は、何(ど)れも多少は血の色を失って、青褪(あおざ)めて見えることは常であるが、特に園枝は、幾月か病の為生死の境を辿った後と云い、太く涼やかだった両の目は、瞼が窪み落ちたため、更に太く開いて見え、豊かだった頬も痩(や)せて、木枯らしに研ぎ出した、冬枯れの景色のように見え、唇頭(くちびる)に紅の色久しく消えて、口元に笑みの痕(あと)は全く絶え、気位の高い中に、非常にあどけなく見えていた、当時の姿は跡形もなかった。

 ただこの様な中にも、天のなせる麗質は病も奪うことは出来ないのか、一種俗界の煩(わずら)わしさを超脱(はなれ)た所がある。春の花の様に笑みしかりし美しさは、秋の霜の様な美しさとなり、ただ物凄いのを覚えるばかり。

 大胆不敵な古松も、此の物凄き美しさに向っては、昔ただ一口に非常に軽く呼び付けた様に、さう容易には口を開くことは出来なかった。暫(しば)し呆気に取られた様に、其の顔を凝視(うちみまも)るに、園枝は古松をつくづく見た末、非常に鋭い口調で、

 「お前は何のため此処へ来た。」
 古松は周章(あわて)て制し止め、
 「オオその様な高い声をして聞き咎められる。」
と云いながら、忍び提灯の蓋を閉じ、四辺(あたり)を元の朦朧(もうろう)たる薄暗がりにして、

 「牢番に賄賂を使い、和女(そなた)を救いに来たのだよ。」
 園枝は何人に聞き咎められるとも、我が身に恐れる所がないので、別に其の声を低くもせず、
 「私を救いに、オオ此の牢から盗み出して、昔の様に不義非道に酷(ひど)く使うために」
と充分の怒りを示して問い返すと、古松は憫(あわれ)みの声を粧(よそお)い、非常に親切そうに、

 「なんと言う事を言う。男爵夫人と云う立派な身分に有る和女(そなた)を酷使(こきつか)うなど、その様に粗末にして成る者か、和女が無実の疑いを受け、牢の中に留置かれるのが可哀相なので、其処はソレ親子の情で、知らない顔して居るのに忍びず、己(おれ)の心一つで無実も分り、放免せられるに極まって居るから、どうか助けて遣りたいと、危険な思いをして此の牢へ忍んで来たのだ。」

 園枝は是だけ聞いて、漸(ようや)くに我が身の境涯を思い出した。今までは夢覚めた途端と言い、不意に古松の顔を見た驚きに、殆ど何事も忘れて居たが、思えば我が身は、此の古松の為に捕われ、古松の罪を身に負って苦しめられて居たのだ。
 判事からも実に古松が捕われるまでは、何事を言い立てても無益であると云われていた。
 
 古松自ら現われて来たのは、天も我が不幸を憫れみ給いしかと、はや自ら気も進み、古松の口と心に、如何(どれ)ほどの相違があるかを、考え廻す暇もなく、
 「オオ、私は全くお前の罪でこの様な目に逢って居る。お前が私の罪を言い開いて呉れると云う、真人間の了見が出たとならば、私の為にもお前の為にも喜ばしい。けれどもナニ、私を救うのに、態々(わざわざ)牢に忍んで来るには及ばないこと、警察へ自首して出れば夫(それ)で済む。」

 古「爾(そう)サ、是から自首して出るよ。出るけれど其の前に一応和女(そなた)に話して置かなければ成らない事が有る。」
と云う。
 古松は何を言い出そうとするのだろう。


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