sutekobune106
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
百六
古松は何の為に獄中に忍んで来たのだろう。真に園枝を救う丈の考えならば、直ちに警察に自首するのが近道である。彼は何か心に企(たくら)む所があるのに違いない。
彼は園枝に打ち向い、
「和女(そなた)は己(おれ)が自首して出る外には、到底出獄の見込みはない。己が捕らえられなければ、何時迄も此の未決監に留め置かれ、其の上に、そうサー」
と云い掛け、園枝の様子を透かして見て、
「可愛い子までも此の牢の中で生み落とさなければならない。」
と早や彼は、園枝の急所を知り、一言に其の急所を突き留めて、
「牢の中で生んだ子は生涯出世も覚束無く、益々和女の身に不幸を重ねるばかりの訳、サア、この様な場合と知り、己が身を捨て救って遣るからは、余程有り難く思って貰はなければならない。どうだ今救って遣れば其の恩に酬(むく)いて呉れるか。」
さては茲(ここ)に来て、先ず報酬の約束を結んで置こうとする、其の下心は明白である。
園「爾(そう)さ、お前を今迄少しの善心もない、凝り固まった悪人と思って居たが、罪を悔いて自首するなら、さては後悔して善人に成り変ったかと斯(こ)う思う。是が自然の酬(むく)いと云ふものではないか。」
古松はセセラ笑い、
「和女(そなた)に悪人と思われても、痛くもなければ、善人と思われても嬉しくもない。オオ善人と思って遣るから、夫(それ)を恩返しと思えなぞ、余り虫が好さ過ぎようぜ。」
此の口振りで、園枝は何もかも見て取り、
殆ど忌まわしと云う口調で、
「それではお前は、悪事を後悔したのでも何でもない、ただ私から報酬の約束を聞き、商売をする積りだ。真実自首して出る心ではないだろう。」
古「そう云えば、先ア其様(そん)なものよ。自分で自首して出なくても、和女(そなた)を救う工夫は幾等でも有る。たとえ自首して捕らわれた所で、和女が無事放免されたと見れば、密(そっ)と牢から逃げ出すことも出来る。其の辺はどうでも好い。ただ和女が己に救われ度いか、救われ度くないかを聞くのだ。」
と次第に悪人の本性を現して来た。
園枝は断固として、
「お前が本当に罪を悔い、自首して出て、夫(それ)が為、私が無罪放免を言い渡されるなら、私は本当に有難いと思うけれど、そうではなくて、お前が矢張り悪人の仕事を続け、報酬を目当てにその様な事をするなら有難くも何ともない。」
古松は又笑い
「ハハハ、是ほど苦労しても、未だ昔の片意地は少しも抜けないと見える。勿論己が和女を救うには、外に道は無い。係官に充分和女の無実を知らせ、誠の罪人は外に在る事を合点させて、和女を立派に放免させるのサ。少しも暗い所の無い本当の晴天白日ににして遣るのサ。」
如何に片意地者とは言え、之には心を動かさざるをえない。真に何も彼も証拠が上がり、我が身の清き事が明白に分るとすれば、之に越す望みは無い。しかしながら、此の古松の言葉は、果たして悉(ことごと)く信ずべきか。園枝は暫(しば)し考えて、
「今ではお前一人の力で、そう簡単に私を晴天白日の身とする事は出来ない。私の身には、船長立田と云う人を殺した、お前の罪の外、更に重い疑いが掛かって居る。立田を殺した連累の嫌疑だけならお前が言い開いて呉れる事は容易だけれど、其の外の嫌疑は、お前の力では何うすることも出来ない。」
古「オッと皆まで言うに及ばない。其の外の罪とは、皮林幾堂と不義を働き、良人男爵を毒殺しようと計り、小部石(コブストン)大佐を不具にしたと云う嫌疑だろう。」
園枝はどうして古松が、この様な事迄知っているのかと、且つ怪しみ、且つ驚き、急には返す言葉も出ず、
古「サア、此の嫌疑を充分言解いて、和女が不義者でも毒殺者でも無い事を証明するのは、世界中己(おれ)より外に一人もない。夫(それ)だから、今夜茲(ここ)へ忍んで来たのだ。第一、和女(そなた)が不義者でない証拠は、己が自分でヤルボローの古塔に泊まり合わせ、和女と皮林との問答を悉く聞いて仕舞った。」
園枝は唯仰天し、
「エ、エ、本当に。」
古「本当とも、嘘と思うならば、其の夜の有様を、言って聞かせよう。」
と云い、当夜皮林が言った事から、園枝が返事した事を、一々繰り返すと、園枝自身が覚えて居る所と、少しも違っていなかった。園枝は何も彼も打ち忘れ、唯嬉しさに闇の中で飛び立ちながら、
「オオ有難い、一人でもアノ夜の事を聞いた人が有れば、それで私は助かった。身の濡れ衣も晴れると云うもの、サア早く自首してお呉れ。」
古松は敢えて急がず、
「待てよ、己一人ではなく、己と手下と二人で泊まって二人で聞いたよ。是で和女(そなた)が不義者でないと分れば、毒殺者で無い事は独りで分る理屈だが、併し是に付いても、又二つとはない真の証拠を握って居る。」
と言って、彼の皮林育堂が策した毒殺の証拠を、悉く我が手に納めて有る次第を詳しく述べると、園枝は枯れ木に花が咲く思いをして、夢中となって益々迫り、
「何の様な報酬でもするから、どうか其の事を係官に言立て、私を助けてお呉れ。どうか、どうか。」
と手を合わせ拝まない許(ばか)りの有様であるのは、無理もない心情に違いない。
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