sutekobune112
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
百十二
実に男爵は自ら愛情とは云わないが、既に愛情の境に入ったものである。
小浪嬢との往来は益々親しくなり、之が為に幾分か園枝の事をも忘れ、心淋しさをも忘れた。
とりわけ小浪嬢の待遇(もてな)し方は、かつて園枝が男爵に仕えたよりもなお綿密にして、男爵が僅かに眉の一毛を動かすのにも、早や其の心を読み取って、男爵の喜ぶ様に仕向けるなど、流石通例の令嬢より長い年月を、交際社会に費やしただけあり、殆ど一点の失念(ぬかり)もないので、男爵は幾月をも経ないうち、早や自ら問い、自ら、
「これ程までに万事に行き渡っている婦人があるのに、我は何時までも独身の不自由を守って、何の甲斐があるだろう。甲斐無し。
我と小浪嬢とが結婚するのに、何か不都合な所があるだろうか。不都合無し。何う考えても、夫婦になり度い気がするが、世に言う愛情の様に、胸も躍らず、気も別に急かないけれど、言い出して、万が一先方が応じなければ、其の時は断念する迄の事だ。」
と答えた。
店先の品物を問い試みる様な気軽さで、或時小浪嬢に向い、
「二度目の妻とは人の厭がる所であるが、我には五月蝿い子供もないので、我が為に二度目の妻と成って呉れないだろうか。尤も此の年に成って、若い紳士の様に、熱心に御身を愛する事は出来ないだろうが、御身さえ誠実に我を良人(おっと)として仕えて呉れるならば、後々御身に何の不自由をも掛けないのは勿論、御身の幸福は我が力の及ぶだけ、我が確かに引き受けよう。」
と申し出た。
嬢をして、今百二十ケ月も若かったならば、否さほどまで若くなくても、通例女と云われる身にとって、持っていなければならない見識さえ備えていれば、この様な余所余所しい縁談には、腹を立て、言い出す人の顔に唾をも吐き掛け兼ねない剣幕を現すべきなのに、不思議なことに、嬢は其の自由自在な顔の色を、宛も二十歳以下の処女(むすめ)の様に、耳の邊まで赤くして、非常に恥かしそうに、しかも非常に明白に返事するその言葉によると、
「未だ物心も無い幼い頃から、男爵の名を聞き、其の人を慕い、届かない愚痴とは知りながらも其の後まで、是が為に幾多の縁談を断っていました。三十歳や四十歳の小児同様な紳士を良人(おっと)にして、何うしましょう。酸いも甘いも噛み分けて、真の男の男らしい盛りと云うのは、五十歳からこそ始まります。其れ以下の年頃では良人(おっと)として尊敬する心も出ません。」
と迄には云わなかったが、殆どそれほどの口調で、
「男爵が我が身の年のまだ足りないのを厭(いと)いなさらなければ、年ほどには万事について足りない身でありますが、この上無い仕合せなので、充分男爵の幸福に身を尽くしましょう。」
と答えたので、是で縁談だけは纏(まと)まった。
しかしながら、男爵は今の身の上を顧みて、病中である小部石(コブストン)大佐ばかりか、世間の人にも多少憚る所があった。婚礼の式は、追って本国に帰る事が出来る頃に挙げる事とし、それまでは唯両人(ふたり)の間の約束だけにして、何人にも知らさないことと定め、是からは男爵は又一層、嬢の身に注意を添え、宿の賄(まかな)い万端を引き受けるのみならず、旅先ながらも様々の品物を贈り、嬢の室を飾らせるなど、届く丈世話を焼いたが、茲(ここ)に来て、非常に残念なのは、此の前後からして、男爵の健康が、徐(そ)ろ徐(そ)ろと傾き始めた一事である。
それも著しく外面に現われる程で無かったが、時々咽喉に唯ならない渇きを生じ、咽喉の中を焼く様な刺激を覚え、是に伴って、食欲が次第に減じて来た。初めは気の付かないほど微かであったが、日を経るに従って、追々に重くなって来て、終には自分でも、度の低い熱病の類にでも罹ったかと、怪しむまでに到ったが、医師の診察を乞おうにも、英国を出る時引き連れて来た医者は、小部石大佐の容態を、最早服薬の効よりも月日の功を頼むが好いと見極めて、少し前に、辞して帰り去っていた。
その後定まった医師が居なかったので、新たに医師を迎えて来るのも億劫(おっくう)だとして、其の中には直るだろうと、一日一日空しく送っていた。
或る朝、男爵は起きて来て居間に入ると、給仕の者が、非常に異様に男爵の顔を見詰めるので、男爵は見咎めて、
「お前は失礼と云う事を知らないか、何で己(おれ)の顔をその様に見詰めるのだ。」
と問うと、給仕は深く詫びた後、
「イイエ、少しも悪気では有りません。旦那様のお顔が、此の一月ほどの間に、大層お痩(や)せなすって、それに此の一週間ほどは、お色も酷くお悪く見え・・・・・、そうしてーーー。」
と言い掛けて口籠るので、男爵は又厳しく、
「そうして如何したのだ。」
給仕「ハイ、そうして召し上がり物が、滅切(めっき)り少なくお成りなさった様に思いますから、若しや、ご病気の下地ででもお有りなされはしないかと思いまして。」
と云った。
他人ながらも、この様に迄親切に、我が事に気を付けて呉れるかと思うと、忽(たちま)ち心も解け、
「オオ、真にお前の言う通り食べ物が大層減った。併しナニ山の中で同じ物ばかり食べて居る為だろう。心配する事はない。」
と云って其の場だけは済ませたが、後で思い廻(めぐら)すと、此の頃我が顔を見詰める者は、此の給仕だけでは無い。小部石大佐も又その枕辺に到るごとに我を見る目、どうやら日頃とは違うようだ。
或は我が心の迷いかも知れないが、念の為に糺(ただ)して見ようと、直ちに大佐の室に入って行き、其の枕邊に腰を下ろすと、我が心の迷いでは無く、大佐が我が顔を見る眼に、殆ど何と言ったら好いか、分らないほどの心配の様子を現せるばかりか、鬼武者とも云うべき眼に、今日は殊更(ことさら)涙をハラハラと落とすので、男爵は接寄(すりよ)って、
「老友、何をその様に嘆くのじゃ、オオ此の様に問うても、可哀相に返事する事も出来ず、己(おれ)はお前の気が晴れないのが何よりも心苦しい。コレ老友、己の顔を見て泣くのは、此の顔にどうか変わった所でも有るのか。」
大佐の眼は
「然り」
との意を示した。
男「オオ、お前がそう心配するなら、直ぐ医者を呼び、診て貰おう、何も心配する事はない。気分は少しも変わらいから。」
と云うと、大佐も医者を呼ぶとの一言に、幾分か安心した様に、其の目を閉じたので、男爵は又我が室へ帰り、夫(それ)にしても我が顔は、如何(どう)にかなったのかと、自ら鏡を取り出し、自ら見て非常に驚いた。
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