巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune115

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.16

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 百十五

 我に付き添う者の中に、日々我が食物に、一滴づつ毒薬を落とし込む者ありとは、実に恐ろしい限りなので、男爵は殆ど身震いして博士の許を去り、是より後は、兎に角も、其の毒を避けなければならないと思い、食事の度に隣の宿に行き、小浪嬢の手ずから差し出す物の外、一切飲みもせず食いもしない事とすると、怪しいことに、三日、四日を経ても、気持ちに少しも快い所が無く、却(かえ)って咽喉の渇き方など、日に日に重くなって来たので、男爵は不審に堪(た)えられず、五日目に及んで、又もや博士の許に行き、其の事を詳しく語ると、博士は容易ならない面持ちで、

 「では毒薬の行使者が分かったと云うものです。今迄の付き添い人の手からは、何一つ飲み食いせず、そうして其の婦人の手ばかりで給仕されるのに、益々毒が重るとならば、毒薬は今までの付き添い人の手で垂らし込むのではなく、その婦人の手で垂らし込むのです。」
 男爵は殆ど腹立たしそうに、
 「其の様な筈は有りません。その様な婦人とは婦人が違います。」

 博士は苦々しげに、
 「貴方は年齢に似合わず兎角物事を、自分の感情から割り出して考えるから了(いけ)ません。一切の感情を捨て、学者が学理を考える様に、極公平に、極冷淡に考えて御覧なさい。私は其の婦人を知らないけれど、其の婦人の給仕の外は、少しも飲み食いしない事にして、そうしてなお毒が重るなら、第一に其の婦人を疑うべき道筋だと思います。」

 男「でも其の婦人は私が死去すれば一生を過ちます。如何しても私を健康にして、生かして置かなければならない身です。」
 博「夫(それ)はそうかも知れませんが、世の中は偽りや間違いの随分多い者で、人は極めて騙(だま)され易い動物です。何処にどう云う間違いが有って、どの様な意外な事が出て来るか、少しも分りません。美しい婦人が毒を盛ると云えば、貴方には意外でしょうが、私には少しも意外では有りません。私は唯実験を信ずるのです。貴方が其の婦人の許で飲食して、夫(それ)で毒が重くなったのが。即ち実験と云うものです。貴方は是だけの実験をして、何で外を疑いますか。」

 男爵はまだ心が解けず、
 「若しや前に飲んで居た毒が、此の四、五日に到って効能(ききめ)を現したのではないでしょうか。」
 博「イイエ、その様な事は決して有りません。一日飲まなければ、一日だけ退きますから、其の毒が毎日重くなるのは、引き続き毎日飲まされて居る証拠です。」

 是だけで、博士も男爵も暫く無言であったが、ややあって博士は少し言葉を和らげ、
 「貴方が其の婦人と往来する事に成ったのは、何時からの事ですか。」
 男「そうですね、此の土地へ来た初めからです。」
 博「そうすると其の婦人に逢わない前は、少しも食欲が減ったり咽喉が渇いたりする様な事は無かったですな。」
 男「ハイ」

 博「シテ其の婦人の手から、お茶とか酒とか云う類のものを、日々受け取って飲んだ事は有りませんか。」
 男「有ります、先月の中頃からは、毎日食後に其の婦人の許へ行きます。其の度に婦人が手ずから一椀の茶を、私へ差し出します。」
 博「勿論貴方は其れを受け取って飲んだでしょう。」
 男『飲みました。」
 博「夫(それ)を飲み始めて間も無く、今の兆候が現われ初めたのでは有りませんか。」

 なるほど博士の推量する通りである。我が病は、全く小浪嬢の許へ毎夕行く事となった頃から、徐々(そろそろ)と現われ初めたのだ。だからと言って、真逆(まさか)嬢が差し出だす其の硝盃(コップ)の中に、恐るべき毒薬が潜(ひそ)んでいるとは、まだ信じる事が出来ない所なので、男爵は黙然として考え込むと、博士は又更に語を柔らげ、

「イヤ、明らかに其の婦人の仕業と指すのは、私の言い過ぎでした。此の疑いは、まだ確実と云う程で有りませんから、貴方は今から、一応実験の積りでお試しなさい。今度は其の婦人の許へ一週間ばかり行かない様にし、食物は総て我が宿ばかりでする事に、そうして一週間の中に、徴候が薄らぐ様ならば、其の時に初めて其の婦人の仕業と云う事が判然(わか)ります。」

 此の柔らかな言葉だけは、充分男爵の意に落ちたので、男爵は当分の間、小浪嬢の許へは行かず、博士の言う通り試して見ようと思い、其の決心を博士に告げて立ち帰ったが、帰って後も、まだ彼是れと思い合わしてみて、かって園枝と我との間に不和の心を生じたのも、其の原因(もと)も多くは、小浪嬢の力に由っていた。

 或は嬢が其の頃から、我が妻となるを欲し、暗に両人(ふたり)の不和を祈っていたのかも知れない。今となってなお我に毒することは合点が行かないけれど、或は其の心の中に、如何なる嫉(ねた)み、如何なる恨みが有るかも知れない。博士の言葉に従って、一週間程其の許を遠ざかる事は、何の悪い事があるだろうかと、充分心に定めた。

 そこで彼是と嬢と暫(しばら)く遠ざかる工夫を考えた末、其の工夫を実行する手初めとして、嬢に然るべく得心させる為、その夜又嬢の許に行き、此の頃健康が優れないので、再び土地を替えよう思うので、御身は先ず出発して英国に帰り、聖レオナード・オン・シイと云う海浜(かいひん)に行き、其の地の宿屋で我を待っていて欲しい。我は一週間ほど後れ、万端の仕度を調(ととの)えて其の地に行き、健康の様子を見て結婚は其の地で行ない、其の上で我が郷里に帰る事にしようと言い、更に許多(あまた)の旅費などを与えると、嬢は男爵の健康が優れないと云うのを聞き、非常に不安そうに、踏み留まって介抱しますなどと言ったが、男爵は我が決心は既にこの様に定まったので、何事あっても変えることは出来ないと、固く答えて少しも動かなかった。

 嬢も強いてとは言い兼ね、終に其の意に従う事となったが、話しが終わり、嬢は例の如く一椀の茶を男爵に差し出した。毎(いつ)もならば、嬉しそうに受けて飲む男爵が、今夜に限って、気の無い顔で、
 「イヤ其のコップの茶は最う飲まないことにします。」
と云うと、嬢は宛(あたか)も毒薬でも見破られた人の様に、非常に驚いて、殆ど顔の色を変えた。


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