巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune118

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.19

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

              百十八

 実に男爵は土より青く、小浪嬢は火より赤く、互いに暫(しばら)くの間無言で睨(にら)み合うばかりだったが、其のうちに男爵は決然として息を呑み込み、非常に厳かな口調で、
 「小浪嬢、私が何故其の茶を飲まないか、其の理由を詳しく言いましょうか、云えば貴女は恥辱の底に陥(おちい)り、再び世間に顔を出す事の出来ない程にも立ち到ることは、御自分でご存知でしょう。それとも私が云う迄もなく、貴女が自ら自分の罪を知って居ると云うならば、私は強いて辛い言葉を並べ度くは有りません。何にも云わずに立ち去ります。」
と男爵は漸(ようや)く是だけを言い切った。

 最初此処に来た決心は、唯一言に問い詰めて、何も彼も白状させようと云うところにあったけれど、顔と顔を合わせては、真逆(まさか)にそう迄も言うことが出来ないのか、小浪嬢は是だけ聞き、さては皮林から受け取って、日々一滴づつ茶に混(こん)じて男爵に勧めていた彼の魔薬の事、何かの便りで、男爵に知られたかと、心に驚いた事は並大抵ではなかったが、嬢はまだ彼の魔薬が、命を取る様な毒薬であるとは露思わず、男爵が言う程に、其の身の罪が重いのを知らず、其の恥かしさと当惑に殆ど答える事が出来なかった。

 赤い顔を更に一層赤くしたが、事茲(ここ)に到っては、何も彼も否定して、全く知らない全く知らないを張り通すほかは無いと思い定め、其の自由自在な顔の色を、忽ち平気に落ち着けて、
 「オヤ、貴方は何を仰る。何の事だか私には少しも分りませんが、」
と答えた。

 男爵は此の間に、事細かに嬢の顔色を眺め、其の当惑から平気に移るのが容易なる様をも見、又此の言葉を聞き、声の何処かに、真情ならない偽りの節があるのを思い、今迄幾らか遅れを取って居た心に、嚇(か)っと張り裂けるばかりの怒りを発し、己(おの)れ、まだ我を欺くのかと云わない許(ばか)りの剣幕で、目を張り開き、恐ろしい程の相の変わった其の顔を、嬢の前に差し付けて、

 「エ、私の言葉が分らない、貴女は詐欺師です。偽り者です。毒婦です。今まで貴女を二度目の妻にもしたい程深く信じて居ましたが、貴女の化けの皮は剝げました。もう決してその様な言葉に欺(あざむ)かれません。何もかも知って居ます。ハイ何も彼も、何も彼も」
 此の余りに鋭い剣幕に、嬢は又自ら怪しみ、

 「何も彼(かも)とは何の事です。」
 男「ハイ、貴女の罪を何も彼も、ハイ貴女の根性の腐ったことと、貴女の心の偽りを残らず知って仕舞いました。何故強情にそう恍(とぼ)けて居ます。サア白状なさい。切(せ)めては後悔の色でもお現しなさい。」

 嬢はこれ程までに云われる筈は無いと、益々以って合点が行かず、
 「オオ恐ろしい、貴方は病気の為に、気でも違いましたか。アアそうです。如何したら好いでしょう。先(ま)ア男爵が発狂なさった。」
と独言(ひとりごと)の様に云うのも無理は無い。発狂したのでなければ、これ程までに云う筈は無いと思うからだ。

 男「貴女は自分の言い開きが立たない為に、人を発狂などと強(し)いるのです。」
 嬢「でも貴方の仰る事は何のことだか、少しも私に判然(わか)ません。」
 男「判然(わか)らない事は無い。既に充分に判然(わか)る様に言いました。」
 嬢「イイエ、後悔しろの、白状しろのと、私に何の後悔する程の罪が有ります。何の白状する様な悪事が有ります。」

 男爵はむっくと立って身を延ばし、嬢の頭上に傘の様に懸かって、
 「何の罪、何の悪事とは又余り空々しい。人間の罪の中で、この上のない大罪です。ハイ人殺しと云う大罪です。」
 嬢「エ、エ、私が人殺し。」
 男「勿論です。人殺しも通例の謀殺者や暗殺者より、倍も幾倍も重いのです。言葉巧みに他人を迷わし、親切と見せて油断させ、そうして置いて一寸づつ嬲(なぶ)り殺しにするのです。ハイ、秘密毒害と云う、極悪非道の人殺しです。言い消すにも言い消されません。貴女は瑞西(スイス)の山中で私に逢い、そうして私と離れるまでの間、毎日私へ何を飲ませました。茶の中に一滴づつ落とし込んで私へ勧めた恐ろしい毒薬は、人殺しでなくて何の為です。」

 初めて明白に言い聞かされる言葉に、嬢は身の置き所も知らない程に打ち驚き、
 「アレ、アノ様な事を仰る。先アどうしたらーエ、恐ろしい。」
と打ち叫び、逃げ出そうとする人の様に、我を忘れて立ち上がったが、嬢の悪運も最早ここに至って、尽きたと云うべきか、此の時嬢の衣嚢(かくし)から、床の上に転がり落ちたのは、非常に小さい薬瓶で、口には堅く栓を差し、中には水の様な透明な液体を、半分の余も充(み)たして在った。

 男爵は隙(すか)さず認めて、
 「もう彼れ是れ云う事は有りません。何よりの証拠が貴女の衣嚢(かくし)から落ちました。」
と云い、拾い上げようとすると、嬢は周章(あわ)て狼狽(ふた)めいて、男爵より先に之を取り上げ、
 「是は毒薬では有りません。」
 男「毒薬でなければ、何で隠し持って居るのです。何でその様に周章(あわて)て拾い上げます。」

 嬢「之は、アノ、私の持病の薬です。ハイ、持薬です。」
 男「持薬か毒薬か、今は分析師と云う者が有りますから、サアお出しなさい、私が持って行って分析させます。」
 嬢「その様な根もない疑いに、復する事はできません。」
 男爵は腕力に訴えても受け取ろうと、

 「毒薬でないと口に云っても、その様に隠すのが何よりも証拠です。毒薬でない証拠が何処に有ります。」
と迫り寄ると、嬢は実に必死の場合、最早かつて皮林が飲んで示した様に、自ら飲んで其の毒薬でない事を証明する外は無しと思い、
 「ハイ、毒薬でない証拠には、此の通り毎日私が飲んで居るのです。」
と云い、自ら其の瓶を口に宛(あ)てたが。男爵は此の様に、さてはと半信半疑に落ち、
 「毒薬でなければ、一層分析を拒む筈が有りません。」
と云い、直ちに飛び掛って、嬢の手を捉え留めたけれど、事は既に後の祭りであった。


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