巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune12

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.5

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 十二

 常磐男爵は乞食の歌う歌の声に、限りない憐れみを催して、浮々(うかうか)と窓際に進んで行き、その戸を開いて外に運動場として設けてあるベランダ側に出て、手摺りに寄りかかって、下の街を眺め下ろした。

 夜は既に半ばにして、何の家も戸を鎖(とざ)し、僅かに店を仕舞おうとする夜商人の灯(あか)りだけが点々と燃え残っていて、行き通う人の影も無い。唯一天に冬の月澄み渡って、遥か彼方の辺りまで、一目に見渡されたので、今の乞食はと目を配ると、丁度この宿の前に当たり、よろめきながら立ち去ろうとする人影があった。

 頼りなさそうに二足三足去ると見る間に、立ち留まって、息を吐き、又一脚(あし)歩む様子は、飢えにその身の力尽き、歩もうととして歩む事が出来ない者に似ていた。是が今歌っていた女乞食か、アア憐れだと男爵が更に其の身を手摺りから突き差し出そうとする折しも、乞食は全く疲労し果て、悶掻(もが)く事さえ出来無い様に、ドウと大地に転び伏した。

 男爵は最早や空しく見るに耐えられず、我にも無く室の中に駆け入り、壁に懸けてある我が帽子を取るより早く、殆ど知らず識(し)らずに階段(はしご)を下に駆け降り、今将(まさ)に店の戸を閉ざそうとする番頭の怪しむのにも頓着せず、そのまま戸外(そと)に躍り出て、きっと彼方を打ち見やると、乞食は又起きて幾歩をか歩み去り、再び打ち倒れたと思ぼしく、今見た所より、幾間の先に在った。

 霜置く街の石畳みに、汚れて黒いその服は特に目立って鮮やかであった。男爵はその許に近寄り、更にその倒れている姿を眺めると、俯伏(うつぶせ)に前に転び、投げ出した白い手に額を載せていて、その顔は見ることが出来なかったが、姿良く備わった、年若い女であることを知るのは難かしくは無かった。真に哀れな有様なので、男爵は俯向いて、非常に柔らかに、

 「コレ、コレ、お前は何でこの様な所に寝て居る。」
 女は非常に重たそうに首を上げ、男爵の顔を見ながら、
 「何所にここより好い寝床が有りましょう。」
と凍える声で言い返すのは、石畳の外、何の寝床をも与えない世の邪険を、恨むかの様に聞こえた。

 男「お前は家(うち)は無いのか。自分の家庭(おうち)は無いのか。」
 女は少しの猶予もせず、
 「家庭(おうち)、ハイ、人にはその様な者が有るとやら聞きますが、私は未だ家庭(おうち)と云う者を知りません。」
 その語句、徒(いたずら)に人の憐れみを乞おうとして、哀れを飾る言葉では無く、殆ど世の邪険に抵抗し、温かい家庭(おうち)のある人を眼下に見て、自分の身の尊いのを辱かしめ無い人に似て居た。

 男「それでも今夜何所へ行く積りでこの町を!」
 女「ハイ、何所かにか、若しや戸締りの無い空家でも有ろうかと思う丈です。朝から今まで唱(うた)い続けに唱(うた)っても、食い物の料(しろ)さえ出来ず、猶更(なおさら)宿を求める払いなどは出来ません。」
と云いながら、又一段上げ来るその顔を、満面に照らす月の光に男爵はつくづくと眺めると、是実に人間界の者では無かった。

 月宮殿から落ちて来た仙女でなければ、何でこれほどまでに水際離れて美しさが得られるだろう。浴(ゆあ)みしていないその色は、青いかと思われる程に白く、櫛けづら無いその髪は雲の様に前額に掛って、見る限り、一点の俗気も無い。

 先に非常に妙なりと聞こえた声、実にこの様な女の唇頭(くちびる)だからこそ出て来たのだろう。唯窶(やつ)れて、艶々しく無い所は有るものの、容貌の優れていることは、声の優れていることより又一層だ。

 広い世にはこの様な乞食も有るものかと、男爵は殆ど怖気(おじけ)に襲われるまでに感じ入り、夢路に迷う様な心地で、
 「お前は永くこの様なーーー。」
乞食とは言い兼ね、
 「有様で居るのか。」

 女「ハイ、物心覚えてから今が今まで、同じ浅ましい身の上です。」
 男「夫にしても歌など唱(うた)って廻るのは何時頃から。」
 女「ハイ、十二の時から六、七年です。この様に町々を唱って廻る許りでは無く、或時は酒店などでも唱い、又時に由り、見世物小屋などへ雇はれましたが、毎(いつ)も気に入らない事が有って、自分から逃げ出しました。このようにして当ても無く町々を廻るのは二年ほど前からです。」

と澱みもせずに答えたが、何とやら気の進まない所が有るようで、殆ど挨拶一片に聞えるのは、今まで幾度もこの様な事を問われ、その度に、この様に繰返して答えて来たが、只問われ只答えて分かれる外、何の答え栄(ば)えも無いが為、問われるのを有り難しとは思わず、寧ろ五月蝿く思うからに違いない。しかしながら、男爵は一語一語に熱心の度を増して、

 「お前は毎(いつ)もこの土地に居るのか。」
 女「イイエ、今夜この土地に夜店が有ると聞き、多くの人が出るだろうと思い、それを便りに来たのです。」
 男「して、この様に町々を廻ら無い以前は何処に居た。」
 少女は益々五月蝿いと言う様に、
 「ハイ、父に養われて居りました。猶(ま)だお問成さる事が有りますか。」
と云い、早くこの場所を立ち去ろうとする様に、強いてその身を引き起した。


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