巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.21

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                  百二十

 男爵が深く感じて涙を流す迄に至ったのも道理(ことわり)である。英国の留守居から送って来た手紙に、下の様な報告を記して有った。

 被の嫌疑者(園枝夫人)に就いては、其の後探偵横山長作等も充分に奔走したけれども、一つも直接の証拠を得ることが出来ず、却(かえ)って反対の状況証拠とも云うべき事蹟が追々に判って来た程の有様で、遂に証拠不十分として、此の度予審廷限りで放免と成りました。
 証拠不十分と云えば、此の後更に、別様の確実な証拠が出て来た時は、再び捕えられる事もあるのか、その辺はなお法律家に聞き合わせた上、ご報告申し上げます。

 然る所、被嫌疑者は、入獄の以前から懐妊の身となっていたとの事で、その後獄中で追々月満ち、右の放免を言い渡しの時、宛(あたか)も産の気を催し、殆ど困難を極めましたが、監獄の雇い医師何某が、見るに見兼ね、放免と共に同病院に其のまま入院させ、今日で既に出産から二週間を経ましたので、その子は充分生育する見込みが有る様に聞き及びました云々。

 男爵は此の報告を読み、嬉しいと云うか悲しい云うか、唯涙が降り下るばかり。自ら我が心が何処に在るかを知らなかった。幾度か嗚呼、嗚呼と嗟嘆(さたん)《嘆く》して室内を歩み廻るばかりだったが、頓(やが)て自ら心を鎮(しず)め、産の月日など数えて見て、園枝の生んだ其の児と云うのは、確かに園枝が男爵と結婚してから一月の後に孕んだものである。たとえ園枝が、皮林育堂と不義の振る舞いが有ったとしても、懐妊はなお皮林と逢い見ぬ前の事で、其の不義よりも以前に在る。即ち男爵自らの胤にして、清き常磐家の血筋を引く、嫡流の女子であることは、疑うことが出来ない。

 況(ま)して、園枝の不義と云うのは、其の時にこそ疑ったが、今は男爵の心の中に、全く悪人が蒙(こう)むらせた濡れ衣であることは、何よりも明白で、是も亦一点の疑いも留めない程なので、茲(ここ)に至って男爵は、唯自分のした事を悔やみ残念な思いにに責められて、身の置く所も無かった。アア我が身は何と愚かだった事だろう。人の善悪をさえ見る事が出来なかった。貞烈無比の妻を疑い、世にも恐ろしい獄舎(ひとや)の中に投じたばかりか、英国貴族社会に、家風の高い手本とも立てられている我が常磐家の嫡流をば、忌(いま)はしい貧民病院の中で出産させてしまった。此の過ちは何によって償ったら好いだろうか。

 今から急ぎ英国に馳せ帰り、園枝親子を病院から迎え取り、園枝には充分我が罪を謝して、以前より更に重い信認を加え、其の児は常磐家の嫡流として、手厚く養い育てなければ、家に対し、先祖に対し、世間に対し、我が身に対し、何と一言の言い訳も無いと、今まで園枝を憎んだ反動と云い、又小浪嬢に欺かれた反動も加わって、其の上に我が身の義務と児の可愛さに、三方四方より攻め立てられ、一刻も猶予することが出来なかった。

 再び小部石大佐を従者等の手に任せて置き、其の日の中に仕度を調え、翌日出発して英国を指して馳せ帰る事とはなった。
 当時まだ汽車の設けて無い頃と云い、不十分な馬車を継いで、急がれるだけ急いだが、不幸や、途中で風土に中(あて)られて病気となり、十日程も田舎の宿で療養し、初めの見込みより非常に後(おく)れ、一月余を経て、漸(ようや)く国に帰り着いた。

 そこで常磐荘に残して置いて来た、多くの家従達を倫敦(ロンドン)に呼び集め、園枝を迎え取る用意を定め、其の身は自ら病院を指して尋ね行ったが、男爵の運はまだ開かないものか、悲しや、園枝は数日前に児を抱いたまま、病院から立ち去って、今は行方さえ解らないとの事である。
 男爵は聞いて唯腰を抜かさない許(ばか)りに絶望した。


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