巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune121

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.22

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

              百二十一

 園枝が早や既に病院を立ち去って、行方さえ知れないとは、折角尋ね帰った男爵の身にとって、実に絶望の限りだったので、男爵は院長に逢い、詳しく其の様子を聞くと、園枝は産後の疲れも略(ほ
ぼ)回復し、其の児も又良く育って、入院後七週間経ったので、院長も今一週間も経ったならば、初め園枝を此の病院に入れた彼の獄医何某を呼び、此の人に園枝を引き取らせようと思って居たが、園枝は数日前に運動場に出た儘(まま)何処へか消え失せてしまった。

 多分番人の不注意で、其の時開け放しに為っていた裏門から抜け去ったものに違いない。尤も園枝が立ち去った後で、其の部屋を検(しら)べたら、一通は院長に宛て、一通は監獄医何某に宛て、二通の手紙を残して有った。その文句は、長く介抱を受けた事を謝し、今の姿では、留まれば留まるだけ、益々厄介を掛けるばかりで、到底恩返しの方法も無いので、自ずから心苦しく、他日必ず この恩に酬(むく)いる時の有るだろう事を記しただけで、その行く先などに付いては、一句も記してなかった。

 男爵は更に彼の監獄医を尋ねて、その人に面会をし、問い糺(ただ)すと、監獄医へ残した手紙も略(ほぼ)同様にして、深く今までの世話を謝し、終わりに唯一句、
  「私の身には、一日も捨てて置けない義務が有って、今はその義務を果たす為心急ぎ、身体の力附いたのを幸い、御暇乞いの時さえ得ず、匆匆(そうそう)に立ち去ってしまい、大恩に背きますことは、幾重にも御許し下さるようお願い申し上げます。若し幸いにして、なお時後(おく)れず、その義務を果たすのに間に合いましたならば、その上で直ちに帰り、直々に今日の怪しい振る舞いをお詫び致します。」
       
と記して有った。是れは多分、園枝が先に獄中で、彼の悪人古松から、我が実の父の事を聞いた為、その父が未だ北洋に出発しないうちに、欧州北岸の港まで尋ねて行く心に違いなく、重い義務とは父を尋ねる謂(ものい)いに違いないが、男爵はこの様な事迄知る筈が無く、唯怪しい事に思い、これの後彼の汀(みぎわ)夫人の音楽教授所を初め、心当りの箇所は洩れ無く尋ね、更に横山長作を初め、其の外の探偵など多くを雇い、及ぶだけ捜索させたが、更に何の手掛かりも得ることが出来なかった。

 男爵は余りの力落としに、殆ど喪心した人の様に、家をも思わず、身をも思わず、本来なれば甥永谷礼吉を召し、皮林との関係を問い詰(なじ)り、皮林が園枝に対して施した悪事の数々を、取り調べるべき筈なのに、その様な調査をする気力さえ無く、ほとほと浮世が厭になったと云い、この様に不幸ばかり打ち続く英国には、再び帰って来ないと云い切って、迷う様にこの国を立ち去って、又も瑞西(スイス)の山中の小部石(コブストン)大佐を追って行った。

 この年も秋の終わりと為り、北部欧州の寒さは例年よりも厳しいとの事で、南部の諸都府はこれから夜遊びの時候となり、人気浮き立つのに引き換え、早や冬籠りの物寂しい世界となり、野も山も雪に鎖(とざ)され、道行く人は毛皮の襟に深く顔を包み、北洋から吹き来る剣の様な寒風に、頬の肉を殺(そ)がれまいと、専々(おさおさ)油断も無い中に、ここに阿蘭陀(オランダ)のアムステルダムから東北十余里を隔た、ヨルドの税関を指し、降り始めた雪を冒して辿り行く男女があった。

 男は黒い長被(ながぎ)を着流して、頭にこの辺一般に知られる宣教師の帽を頂いているのは、何れ慈善に身を委ね、人の労苦を救うのを以って、一身の勤めとする有難い教職の人に違いなく、これに連れられて行く女は、見る影も無い乞食の姿で、この寒さに身を防ぐ衣服さえ充分では無い。

 古い頭巾に顔を隠していたが、外に現れた鼻の尖(さき)は凍えて、雪中の紅梅よりも赤い。足も非常に疲れているものと覚しく、幾度か躓(つまず)き滑ろうとし、又踏み直して進む様は、見るも哀れむべき限りであるが、この女は背に破れた提琴(バイオリン)を負い、腹には深く襤褸綿(ぼろわた)に纏(まと)わせた乳呑児(ちのみご)を抱いている。

 宣教師は痛わしさに堪(た)えられない様に振り向いて、
 「もう日も暮れるし寒さは寒いし、お前は此処に待って居て、今に荷車の帰りでも通るだろうから、私の名札を出せば載せて呉れる。それに乗って私の家まで帰り、火の傍(そば)で待って居るが好い。私が聞き合わすだけ聞き合わせて進ぜるから。」

と云えど、女は返事もせず、無言のまま唯歩むばかり。宣教師は更に又、
 「エ、今から税関まで行くと、帰りは夜に入って益々難儀だ。」
 女は決然と唯一語、
 「ハイ、夜に入っても雪明かりで歩めます。」
 宣「イヤサ、私が提灯を持って居るから暗いのは構わないが、寒さの為・・・・」

 女「ハイ、父に逢わなければ、凍え死ぬ方が気楽です。」
 宣「アア又その様な事を云う。お前はそうでも、其の赤ん坊が。」
 赤ん坊と云う一語に、女は耐えようとしても耐えられず、初めて泣き声を震わせながら、
 「私が亡くなっても、どうか此の児だけは貴方のお慈悲で、お育てを願います。」

と云い、後は涙で聴き取れないほど迫上(せきあ)げる微(かす)かな声で、
 「是でも元からの乞食の児では有りませんから。」
と言い足した。
 乞食の児で無いばかりか、是こそ英国第一流である貴族、常磐(ときわ)家の嫡流の姫君にして、抱いている女は、其の母常磐男爵夫人園枝女のなれの果てとは、誰が思い知ることが出来ようか。


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