巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune13

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.6

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 十三

 問われるのを蒼蝿(うるさ)そうに、無理にも立って去ろうとする様は、是れ通常の乞食では無い。身は零落(おちぶ)れ果てたが、心の底の何所かに、まだ人に負けない一片の気高い所があるのだろう。特にその立った姿を見ると、俯していた時には分らなかった、一種超凡の風采があった。

 この様な姿を得ようとして、衣服の仕立てを特別にし、身を苦しめ、肉を詰め、終日鏡に打ち向って、背を伸ばし、腰を撫でる者は、貴夫人社会に幾千人居る事だろう。併(しか)もこの姿の半分に及ぶ者は稀である。如何(どう)してこの乞食、粧(よそお)わずして、このこれ程までの趣を備えているのだろう。

 今までこの乞食を見た人は、幾千幾百と数知れない程で有る筈なのに、そのうち一人でさえも、この姿に目を留める人が無かったのか。否々、そう云う人は有ったが、総て是俗物で、少女自ら云った様に、或いは酒店で歌を唱(うた)わせ、或いは見世物小屋の看板にするなど、犬猫の様に遇(あつか)った為、その蒼蝿(うるさ)さに耐えられずに、自ら逃げ去ったものだろう。

 常磐男爵は少しの間、腹の中でこの様な事を問うては答え、茫然と月に透かし、乞食の姿を眺め入って居たが、見れば見るほど人間界の者では無い様な気がして、殆ど物凄さを覚えるうちにも、又異様に深く心を引かれ、動きも離れも出来ない所があった。何しろ合点の行か無い乞食なので、その身の上を知り尽くさなければ置けないと、漸く心決する折りしも、乞食はこの人に用無しと云う様に、早や立ち去ろうとして、一歩歩き出した。

 男爵はハット我に復(かえ)り、遽(あわただ)しく衣嚢(かくし)を探って金貨二個を取り出し、
 「コレコレ、私がこの金貨を遣るから、お前はこの寒空に外を徘徊(さまよ)って居るのには及ばない。然る可き家に宿を取り、暖かに寝るが好い。」

 少女は受け取ろうともせず、
 「今頃私がこの様な物を持って行けば、何所の宿屋でも疑います。」
 男爵は成ほどと心付き、
 「イヤ、それでは私に随(つい)て其所の宿屋まで来るが好い。女主人が飛んだ親切の気立てなので、必ず温かに好く泊めてくれるだろう。」

 少女は寒さに震えながらも、何故斯くは親切にしてくれるのだろうと、殆ど合点が行か無い様に、つくづく男爵の顔を見た末、
 「貴方は実に善人です。貴方の様な立派な方は、誰も親切な言葉さえ掛けては呉れません。何うかすると、貧しい人の方が却(かえ)って痛(いた)わって呉れますけれど、立派な方は皆馬車の上から見下して通ります。」

 この様に答えはするものの、男爵の親切に感ずるよりも、唯事の異様なのに驚く者のようだ。
 男「ナニ、別に善人と云うのでは無い。唯お前の有様が不憫(ふびん)だから、寝る場所を世話して遣ると云う丈の事。それに先程も、お前の歌を聞くと、世にも珍しい声だから、事に由っては、其の声で楽に世を渡れる様に引き立てて遣る事が出来るかも知れないと思うからサ。声と云い、姿と云い、お前の身には、一財産備はっている。」

 一財産とは何の事なのか、少女はそれさえも解し得ない様に、
 「エ、一財産」
と繰り返すだけ。
 男「サア、一緒に来な。お前は余ほど疲れて居て、イヤ、顔色の青い様子は事に由ると病気かも知れない。この上夜風に吹かれては好くないだろう。サア」
と云い、誰が身にも、その慈悲の分るほど親切に自ら先に立って導くと、少女は流石に去る事も出来ず、無言で従って来た。

 この様に導いて去る中にも、男爵の心には未だ一種の怪しみと一種の物凄さを絶(た)つことが出来なかった。我が背(うし)ろから、よろめきながら非常に静かに付いて来る姿は、何と優(しと)やかにして、又何と趣きに富んで居る事か。男爵は幾度か振り向いて其の転ばないのを見届けながら、漸く宿の前に来た。

 先程から男爵の立ち去ったのを怪しんで、宿の女主人は出て来て、戸を残らず〆切らせずに待って居たが、乞食を連れて帰って来たこの体たらくに、痛く不審は催したが、流石大事なお得意に向って、其の色も示すことが出来無い。

 男爵は唯軽く、
 「イヤ、この哀れな女が疲れて往来に倒れて居たから連れて来たが、声も好し、年も若い。何うにか取り立てて、独り世渡りの出来る様にして遣り度いと思う。委細は明日の事として、今夜は何所かへ温かに泊めて遣って貰いましょう。」

 女主人も成程、男爵の言った通りの親切者で、少女の浅ましい姿を見、真に憐れを催した様に、
 「オオ、この顔色の青い事は、ドレ猶(ま)だ温かな食べ物も有りますから、先ずお腹(なか)を拵(こしら)えて、その上好く寝かせて遣りましょう。サア此方へお出で。」
と言い、親身に待遇(もてな)した。

 今迄は唯男爵の振る舞いを怪しそうに思って居た少女も、ここに至って、真にその親切の有難さを知った様に、男爵の方に向き、
 「誠に有難う御座います。この様な親切を受けるのは初めてです。」

 男爵は満足の体で、
 「イヤ、是だけの事をそう有難く思うとは、お前は今まで少しの親切にも逢った事が無いと見える。可哀そうに。明日は私の部屋に来るが好い。好く後々の事を相談して遣るから。」
と云った。
 少女は再び、
 「有難う御座います。」
と云い、女主人に引かれて奥に入ったが、後に男爵は何事か考えて、徐々(そろそろ)二階へ上がりながらも、

 「アア不思議だ。今日急に思い立ち、常磐荘園へ行く積りでここまで来て、寒さに耐えられず、この宿へ泊まる事にしたが、一市区先へ行き延(のび)ても、又手前で泊まっても少女には逢ない所で、先刻ロンドンを出るのを明日に延せば、猶更の事、アア人間の因縁は唯髪筋ほどの差(ちが)いで、天地の相違を来たすと云うが、実にその通りだ。

 丁度少女が夜店を便りにこの市区へ来た晩に、俺も又フトした事でこの市区へ泊まり合わせ、見ず知らずの間ながらも、こうして救って遣る事になるとは、少女の運か、己(おれ)の縁か。世の中は不思議な者だ。」
と深く感じて男爵はその儘(まま)部屋の中に入った。


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