巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune130

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.3.3

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

              百三十

 今までの恨みを忘れ、男爵の罪は許す事が出来ても、再び男爵の妻にはなる事が出来ない。是れは園枝が堅く思い定めた決心である。
 男爵は急込(せきこ)んで、
 「何だと、再び私の妻になる事が出来ないとな。でも私の罪を許し、一切の恨みを忘れて呉れると云ったのに。」
 園「ハイ、恨みはさっぱり忘れました。けれどもーーーー。」
 男「イヤイヤ、罪を許して恨みを忘るれるならば、改めて妻にならなくても、元からの夫婦だから、自然と元の夫婦に立ち返ったと云うものだ。」

 園「イエ、そうは参りません。」
 男「その訳は、その訳は。」
 園「ハイ訳は云う迄も有りません。私は英国一般に不義者毒婦と見做(みな)されて、牢屋の恥辱迄でも受けました。今再び貴方の妻となれば、この女が不義の嫌疑を受け、毒婦と呼ばれて牢に入ったかと、世間の人が又私の昔の恥を思い出します。今の儘(まま)で誰にも身分を知らさずに、独身で世を送れば、誰も汚らわしい私の履歴を知る人はなく、人に弁解するにも及ばず、赤面する場合もなく昔を忘れて暮らすことが出来ます。再び男爵夫人となり、人に顔を見られる事は、どうしても出来ません。」
と充分の決心を示して云ったが、男爵は断念(あきらめ)る事は出来なかった。

 「イヤもう私も英国へ帰りはしない。和女(そなた)と共に人の知らない静かな国で、世を送るから、その様な心配は無い。」
 園「イイエ、英国一、二の貴族として、英国の土地と様々の深い縁に繋(つな)がって居る貴方が、どうして生涯を他国に暮らして済みましょう。」
 男「ナニ済まない事はない。」
 園「貴方はそうお思いなされましょうが、私故に故郷を捨てさせて、生涯旅の不自由をお掛け申すのは、猶更私には出来ません。」

 男「イヤイヤ、旅が何で不自由であろう。和女が元の通り妻にさえなって呉れれば、何国(いずく)の果てでも和女の好む所を私は自分の故郷と思う。
 英国に有る財産を其処へ移しても好い。私は素より和女の身に何の不自由も掛け無い。そうして娘を良く育て、親子三人、楽しい夢の様に世が送られる。是れほどの幸福が又とあろうか。どうかそうして呉れ、園枝、園枝、和女がそうして呉れなければ、私はもう此の世の憂さを一日も堪(た)えていられない。コレ、コレ」
と縋(すが)り附いて、愁訴(かきくど)いたが、園枝は黙然として返事が無い。

 ややあって、
 「私はもう釣り合わない夫婦が、幸福に世を送られるとは、どう有っても思いません。貴方は私の素性をお忘れになりましたか。私は宿無しの乞食でした。町の敷石に行き倒れて、飢え凍えて死ぬ所でした。」
 男爵は情け無い声を絞り、
 「もうその様な事は云って呉れるな、過ぎ去った事は云いっこなしに。」
と、云っても園枝は聞き流して言葉を続け、

「それに悪人とも云う古松の様な汚れた者に、娘として育てられた身の上です。之を思えばどうしても人の妻などになられましょうう。一旦は貴方の恩に甘え、深く前後の思慮もなく、男爵夫人にまで取り立てられましたが、今思うと、是が私の生涯の身の過ち、又貴方も一頃は是を生涯の過ちとお思いなされたでしょう。若し不釣合いの婚礼で、幸福に世が渡られるものならば、貴方と私の婚礼こそ実に幸福に終わらなければならない筈です。貴方は世間の良人(おっと)達が其の妻を愛するより、倍も二倍も私を愛して下され、私も身の程が恐ろしいと思い、及ぶ丈気を付けて貴方に仕えましたけれど、果てはどうなりました。貴方も私も世間には又とない程の不幸に落ちたでは有りませんか。」

 男爵は叫び声で、
 「そ)は私が悪かったからだ。」
 園「イイエ、貴方の悪いのでは有りません。ハイ誰の悪いのでもなく、全く不釣合いの縁から起こった事です。この後も、再び貴方の妻に帰れば、どの様な所から又どの様な禍が出て来るか測られません。表向きはどうであろうと、一旦全く切れた夫婦の間ですから、切れた儘(まま)にして置けば、永い後々には、貴方にご恩返しの出来る事も有りましょうが、再び夫婦となっては、少しのご恩返しも出来ないうちに、又どうなるか知れません。

 今度再び不幸に落ちては、貴方も私も、そ)こそ又と浮ぶ事が出来ませんから、どうか園枝は悪人に育てられた汚らわしい者である、男爵の妻には決して出来ない女で有ると、思い切って頂きましょう。」
と事を分けて述べる言葉は、一々胸に応えないわけには行かなかったが、聞けば聞くほど益々園枝が世の女流と異にして、実に稀なる心掛けの女であることが分り、男爵は只管(ひたすら)悔恨の念が募ると共に、愈々思い切ることが出来なかった。

 或は小児(こども)の将来(のちのち)を説き、利害を説き、或は我が身の過ちを恨らむなど、真情を開いて園枝の操に訴え、又其の慈悲心に訴えたが、園枝は遂に動かない。果ては悄然と打ち萎れ、何やら非常に悲しい決心を起した様子で、
 「貴方がどうしても元の身に立ち返れと仰(おっしゃ)るならば、私は又と貴方が探し出す事の出来ないように、この所を立ち去って、世界の隅に身を隠します。ハイ、今夜の中にもこの家を畳み、行方を晦(くら)ましてしまいます。」

 この一語には、男爵も驚かないわけには行かなかった。かつて金殿玉楼の奢りさえ、塵の如く捨てて顧みず、飄然(ひょうぜん)《ふらりと遣って来たり立ち去ったりする様子》として男爵家を立ち去って、無一物の境涯に帰るのを、其の身の分と諦めた程の女なので、この言葉も徒(いたずら)には発しないだろう。

 今園枝に再び姿を隠されては、元も子も無い有様に立ち到ることは確実なので、ここは唯気を長くして、兎に角も往来の道だけは開いて置くことにして、早や園枝が劇場へ出で行くべき刻限も近付いたので、これ以上園枝の気を損じてはならないと、男爵は懐かしい娘の顔さえ碌(ろく)に見ず、惜しい別れを胸に畳んで帰り去った。




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