巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune14

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.7

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳
                
                 十四
           
 この様にして、男爵は臥床(ねどこ)に入ったが、昼間から余り心労を重ねたため、夢にばかり襲われ、快く眠むることが出来なかった。
 甥永谷礼吉が恨めしそうに睨むかと見ると、忽ち月冴え、風寒い所に少女を助けて、立っているのを見、幾度か目覚めて幾度か頭を挙げたが、そのうち窓の方から夜は段々に明け初(そ)めたので、宿の人々に先立って起き出し、従者をも待たずに身支度を終え、運動場に出て、霜を踏んで漫歩すると、寝不足の重い頭も、漸く軽くなって来るのを感じたので、又部屋の中に入り、再び昨日の事を思い廻した。

 甥永谷を勘当した事は、邪険には聞こえるが、今懲らしめなければ、彼は生涯の悪人になる。若しこの勘当の為、真に浮世の艱苦を甞(な)め、貴族であることに恥かしくない人となったならば、その時に許すことにしても遅くは無い。邪険では無くて、寧ろ慈悲であるなとど、つくづくと思う中にも、特に尚深く心に掛るのは、昨夜救った乞食女の事である。

 そのうちに朝飯の刻となり、食台(テーブル)に向ったけれど、心は常に彼の少女に在る。如何して彼女の様な、非常に優れた身にして、これ程までも零落(おちぶ)れたのだろうか。或いは昨夜、月に透かして眺めた為、殊更趣に富む様に見えたが、その実は唯一通りの女だったのだろうか。月の光は幾倍も色を白く見せ、如何なる景色にも姿を添える者だから。

 否々それにしてもアノ声の麗しかったことは、決して月の為では無い。何という秘密と不可思議の中に包まれた身の上であることか。何うあっても、我はその不可思議を探り究めて、その秘密を明きらかにしようなど、日頃はこの様な空想に耽(ふけ)る人では無いのに、何故か自ら止めようとしても止める事が出来ないまで考え込んだのは、これは男爵が昨夜も呟(つぶや)いた様に、少女の運か男爵自身の縁か、人の因縁は唯髪の毛一條(ひとすじ)で繋(つな)がって、果ては天地の違いとなる者なので、之が為に、今まで非常に幸福だった男爵の身に、天地の違いを来たさなければ、実に幸いと云う可きである。

 朝飯が終ってから、男爵は給仕を呼び、昨夜の少女を連れて来るようにと命じて置き、安楽椅子に打ち凭(もた)れて、昨夕の新聞紙を開き読んだが、何事を記(しる)して有るか心に入って来ない。何でこれ程までに、少女の事が我が胸に充ち満ちてくるのだろうと自ら怪しんで、新聞紙を傍らに投げて立ち、窓の許に行き、
 「爾(そう)だ、少女の身の上が分ら無いから、それでこの様に気に掛るので、身の上さえ聞いて仕舞えば、何も気にかかる事は無い。」

 呟(つぶや)く折りしも、給仕は戸を開き、少女を中に連れて入って退いた。
 男爵は貧しい人を救った事は幾度もあるが、この様に異様に熱心を覚えた事は無い。殆ど自分自身を鎮めることが出来ない有様で、躍起となって振り向いて見ると、実に少女の美しさは月の光に引き立てられたものでは無かった。世の美人と云われる人も、明るい所でつくづく見れば、何処かに面白くない所があるが、唯この少女ばかりは天然の美玉である。日の正面に指す窓に向い、その顔を曝して立っても、一点の非難する所が無い。

 これ程までの美しさ、否この半分の愛らしさでさえも、男爵は常に英国中の上流夫人を集めた倫敦西部(ロンドンウエストエンド)のパーティーでも見た事が無い。破れて所々縫い繋(つな)いだその服は、何とその姿に仕立て卸の着物を着たのより、更に好く似合っていることか。汚れた襟飾りに、絹より白く現われたその首の何と細いことか。髪は乱れて背(うし)ろに束ね、耳の半ばを隠す様は、綺麗に櫛けずったのより趣があって、味わい尽くそうにも尽くせない。

 男爵は殆ど紳士の作法を忘れ、呆気に取られた様に、眺め入ったが、少女は敢えて恥じらいもせず、又誇りもせず、唯何とやら物悲しそうに控えて男爵の言葉を待っている。
 男爵は上より下まで見終わって、漸く気が付き、
 「イヤ、少し気に掛る事が有るので、ツイ迂闊(うっか)りして居た。」
と言い訳の様に言って、座に就き、

 「お前は見た所、この様に暮らす女とも見え無い。それに麗しい声も出るし、私の力に及ぶことなら、昨夜も一寸云った通り、取り立てて其の身の暮らしの付くようにして揚(あ)げたいが、先ずそれ是の詳しい相談をする前に、お前の今までの身の上を一通り聞いて置かなければ。」
と云う。

 今までの身の上との一言に、少女は過ぎた事を思い出してか、殆ど恐ろしいと云う様に身震いをした。男爵はそれと見ないことも無かったが、救う前に素性を聞くのは、勿論当然の事なので、その言葉を柔(やわら)げて、
 「先ずお座り。」
と云って椅子に就かせ、更に、

 「お前の父母は何うしてお前をこの様に捨てて置くのか。」
と聞いた。少女は非常に静かに、
 「ハイ、母は私が幼い頃、亡くなりました。」
 男「シテ、父は。」
 少女「父も死にました。」
と言葉短く答える中にも、父と云う語に至っては、忽(たちま)ち声に角がある様に聞こえるのは、父を恨んでいる者だろうか。
 
 男爵は少し怪しみ、
 「お前は昨夜その様には言わなかったが。」
 少女は猶も静かに、
 「昨夜は疲れていて、心も眩(くら)んで居ましたから、何と申し上げましたかーーー。」
 男「最もだ。最もだ。シテその父は何の稼業で。」
 少女は又少し角立つ声で、渋々と、
 「ハイ、船乗りでした。」
 男「お前の生まれた土地は何処」
 女「イタリアの海辺です。」
と成る丈言葉短に答える。

 若し通例乞食だったら、この様な貴族に問われたならば、有る事無い事取交ぜて、唯この人に憐れみをのみ買おうと勉めるはずのところだが、此の少女が非常に返事を惜しむ様なのは何故だろう。
 男「フム、お前の身の上には、思い出すのさえ悲しい様な事が有ると見えるな。」

 少女は断固として、
 「ハイ、悲しいことや、人には言われない事許(ばか)りです。」
 男爵は更に親切に、
 「でもあろうが、助けるには一応身の上を聞いて置かなければ。」
と云うと、少女は騒ぐ景色も無く、立ち上がって、
 「では是までの御縁です。折角その様に仰って下さっても、言われない事は言われませんので、私は今まで通りに致します。昨夜からの御親切は忘れませんが、それを救って頂か無いのは、私の不運です。何うか救う道の無い者と思し召して頂きましょう。」
と云い、早や去ろうとする様子である。

 零落(おちぶ)れたりとも身の上の恥じを明かして、他人の哀れを乞おうとはしない。是れは乞食の心では無くて、真に貴夫人、真に気骨ある女の心掛けである。


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