巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune150

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.3.23

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         捨小舟  後編   涙香小史
  
                  百五十

 園枝は小部石(コブストン)大佐の憐れむべき有様に、この様に心を動かしてから、再び大佐を他人ばかりの中である巴里の旅館に返すのに忍びなかった。大佐も騒々しい宿屋住居(すまい)よりは、この静かな環境が最も心に叶う上に、更に園枝の行き届く親切に、此処から去るのを欲しない様子である。それに又男爵としても、大佐を此処に留めて置けば、毎日自ら尋ねて来て、自分と園枝との間を益々近くするのに都合が好いので、それや是やの事情で、当分大佐を園枝の客分とし、男爵自らは朝来て夕に帰り去る事とした。

 是で園枝は、娘二葉の帰って来る一週間の待ち遠しさを、幾分紛らせる事が出来て、毎日大佐を車の付いた台に臥(ふ)させて、自らその台を庭面に押して行って、樹々の非常に茂っている、緑陰深い所に憩(やすま)せ、身をその傍に置いて、大佐の心を慰める様に種々の話を聞かせると、大佐も口をこそ利く事は出来なかったが、一通りの受け答えは目を動かして、その意を示す事が出来る為、初め思っていた程は不自由にも見えない。

 この様子ならば追々に、多少はその体を動かす事が出来るようになる時も有るだろうとも思われたが、この家に来て五日目頃から、何故にか、其の眼が非常に心配事でも有るように動いて、少しも落ち着く様子もなく、園枝の告げる話しさえ、耳に入らないかと疑われる時も多くなったので、園枝は非常に心配になり、

 「貴方は急に気分でも悪くお成りに成りましたか。」
と問うと、大佐の眼は、
 「否」
と答えた。
 園「それでは何か気に掛かる事でも出来ましたか。」
と問うと、
 「然り、然り」
と言う様に、眼は動いた。

 園枝は如何したら良いか方法も考え付かなかった。
 「本当に何したら好いでしょう。貴方のお心が分かりさえすれば、何の様にしてでも、そのお気掛かり事を無くして上げますのに、さあ何とかしてその事をお知らせ下さる工夫は無いでしょうか。」
と云ったが、素より口を開けず手も動かない大佐の身で、心を外に示すべき方法も無い。

 園「そのお気掛かりは何方(どちら)の方角です。」
 大佐は問われて、眼を四方(あたり)に廻すだけ。これは自分自ら悶(もどか)しさに堪える事が出来ない為か、将(は)たまた四方八方が心配なためか。
 園「方々が心配なのですか。」
 大佐の眼は「否」と答えて、切に園枝の顔を眺めるので、
 園「私の身の上ですか。」
 大佐の眼は
 「然り」
と云って更に巴里の方を指す様子なので、

 園「私と常磐男爵の身に掛かるのですか。」
 大「然り、最も然り」
 是だけはどうやら読みとる事が出来たようだが、この上の意を何したら問う事が出来るだろうか。園枝は全く途方に暮れ、男爵の来るのを待って相談したが、男爵も同じく心配し、大佐に向かって問うてみたが、男爵としても、何事なのかを察する事が出来なかった。

 果ては大佐の眼は非常に異様な色を現し、涙が溢(あふ)れて来たので、多分その身が不随である為、様々な妄想を起こし、物事の唯何となく悲しく感じられるに到たったものに違いないと云い、医師を迎えて更に診断を頼んだが、医師も神経を鎮める薬を与える外、何の見極めを附ける事が出来なかった。

 是からその医師の処方に従い、薬を大佐に服させようとしたが、大佐は堅く口を閉じ、一滴をも飲もうとしない。しかしながらその悲しそうな様子は唯増して来るばかりで、この後はその大きな眼に涙の乾く暇もなく、その仔細は又遂に知る事が出来ずに終わった。

 この様にして有るうちに、彼の重鬢先生の手紙にあった七日目も空しく過ぎ、八日目の昼過ぎとはなった。
この日男爵は、
 「止むを得ない用事があり、一日無沙汰するので、大佐を宜(よろ)しく頼む。」
との手紙を送り、其の姿見せなかったので、園絵は毎(いつも)の様に庭の片隅に大佐の寝台を押して行って、大佐に様々の事を語らって居ると、表の方から、

 「アレ、まあ嬢様がお帰りなりました。」
と叫びながら、慌ただしく乳母が馳せて来たので、園枝は嬉しさに我を忘れ、雀躍(こおど)りして立とうすると、この時重鬢先生は二葉を抱いて、早や庭の此方に入って来て、
 「夫人貴方が私へお頼みなされたのは、この嬢様でしょうか。」

 勿体らしく問う迄も無く、抱かれた二葉は、
 「阿母(かあ)さま、阿母さま」
と両手を差し延べ重鬢先生の両腕から、藻掻いて抜け出す許(ばか)りにするので、園枝は、
 「オオ本当に好く帰って呉れた。お前が居なくなってから、阿母さまは夜も眠った事はない。」
と云いながら、此方へ抱き取って抱きしめて、その頬に頬を押し当て、暫らくは真に他愛も無い有様であったが、重鬢先生も、さもありなんと思い遣り、凡そ二十分が程も無言で母児(おやこ)の歓びを眺めた末、

 「マア全くこのお児と分かれば、是で私の役目も済み、先ず安心致しました。」
 言われて園枝は初めて心附いた様に、
 「ほんに先生、ご恩は生涯忘れません。どうすればマアこのお礼が出来ましょう。二葉がこの通り無事に帰って、少し色は日に焼けましたけれど、前より丈夫になって、」
と言葉も前後して、殆ど言い尽くせない有様なので、先生は更に益々真面目に、

 「イヤ夫人、そのお礼は私よりも先に受けなければ成らない人が有ります。手紙でも申し上げました通り、このお児を見出した人は私より外に在ります。」
 園「オヤマア、どう致しましょう。私は余り嬉しさに、その事さえも忘れて居ました。その恩人は何方です。エ、先生何方です。」
 先生はこの上の驚きに、この夫人に即死されてはならないと気遣(きづか)う様に極めて静かに、

 「イヤ夫人、驚き成されては了(いけ)ませんよ。フレツタの海浜で第一にこのお児を見出したのは、このお児の祖父様(おじいさま)です。貴方の為には実の父、前から貴女が尋ねて居る、その牧島侯爵です。」

 真に園枝は即死しないばかりに驚き、やや暫(しば)らくは、両の眼を張り開いた儘(まま)、言葉さえも出て来なかった。




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