巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune153

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.3.26

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         捨小舟  後編   涙香小史

                   百五十三

 常磐男爵は園枝を再び妻としなければ、どの様にして味気無い老い先を送るのだろか。それに園枝が伊国(イタリア)に並びない貴族牧島侯爵の娘と聞いては、一方に慕わしさが益々増すと共に、又一方には今までの我が過ちが、又益々深いのを覚え、怒る侯爵に打ち向かって言葉を卑(ひく)くして、只管(ひたすら)に罪を謝やまったのに対し、侯爵は初めは頑として動かなかったが、漸(ようや)くにして男爵の心中を察して遣り、それならば貴下と我との間では、再び過ぎた恨みを語らない事にしようと云い、心だけは打ち解けたけれど、だからと言って、二十年来尋ね尋ねて邂(めぐ)り逅(あ)った娘を、直ちに男爵の妻として連れ去られのには、どうしても耐え忍ぶ事が出来なかったので、是から伊国(イタリア)に引き連れ帰り、親子孫三人で、今迄の苦労を忘れて暮らそうと云い、是より上は、一歩をも譲らなかった。

 なお男爵の方にも、
 「我が娘を思い切る事が出来ないなら、娘が先に英国で受けた不名誉を、悉く雪(そそ)ぎ尽くし、英国中の人は一人として、かつて我が娘を疑った事を悔いて居ないだろうから、萬口一斉に娘の潔白を唱える様にして来い。その様にまで手を尽くしたならば、その節は又改めて相談に応ずる事も有るだろう。」
と、到底行う事が出来ないような難題を言い出したので、是も道理に於いては最も至極のところなので、男爵もどうする事も出来ず、力を落として立ち去った。

 この後は侯爵と園枝とは尽きない話と尽きない情に日の暮れることも忘れる程であったが、園枝は黄昏に及んで、小部石大佐をまだ庭の木陰に残して有るのを思い出したので、父を連れて庭に出て、大佐の寝台の傍に行って、父と大佐を引き合わせると、異様な時には異様な事ばかり重なるものだ。かつて大佐がまだ英国陸軍の尉官であった頃、伊国(イタリア)にある英国公使館附きを命ぜられ、三年程其の国に留まったことが有った。

 其の頃侯爵はまだ独身で、大佐と非常に親しく交わり、共に或は山に獲(か)りし、或は海に浮かび、或は宴席に列なりなどし、莫逆(ばくぎゃく)《互いに気心が通じ、争う事の無い親しい間柄》の友だった事が分かり、侯爵は彌々(いよいよ)喜び、
 「では貴方の身は今日からは、私が引き取ります。近々娘も孫も共に伊国(イタリア)へ行きましょう。」
と言うと、嬉し涙か悲しさか、大佐は唯眼を曇らせるばかり。

 是から幾日かは、何の事もなくて過ぎ、その間に覆面婦人は劇場の座主を大失望させ、座主が古来例の無いほどの莫大な給金を申し出ても、之を拒み復(ま)た舞台には現れず、夜々その座に詰め掛けた客は勿論、新聞紙に至るまで、残念がらない者は無く、又落胆しない者は無かった。

 「覆面婦人は誰だったのだろう。」
 「何が為に現れて何が為に隠れたのだろう。」
 是は度々(たびたび)大都府に在る、
 「七日間の驚き」
の一つに数えられ、あらゆる所でこの事ばかり噂されたが、移り易い都人の心、一週間ばかり過ぎた頃には、早やその事を打ち忘れた様に復(ま)た怪しみ問う人も居ない様になった。

 又この間に常磐男爵は度々園枝の住居を尋ねて来て、侯爵に向かっても、並々ならない親切を尽くすため、初めの有様にも似ず、侯爵も次第に親しみを深くし、何時間も膝を交えて長い雑話に時を移すようになり、話に飽きると庭に出て、庭の一方に設けた土耳古(トルコ)風の涼亭に行き、茲(ここ)で氷を以って冷やした飲み物を飲み、日の暮れる頃まで涼を納(い)れ、男爵は又翌日を約して帰り去ることも、既に数日に及んでいた。

 今日も午後の二時過ぎ、正に熱さの真っ盛りとも云う頃、緑陰深い所でなくては、殆ど凌(しの)ぎ難い刻限と成ったので、新たに侯爵の雇い入れた給仕の者、彼の飲み物の瓶を持って、涼亭に来て、卓子(テーブル)の上に盆を置き、その上に清い三個のコップを伏せて置いたのは、侯爵と男爵と園絵に宛てたものに違いない。

 そこで給仕は汗を拭い、
 「アア今日の様な暑さでは、遣りきれない。この様な涼亭でこの様な冷たい飲み物を飲んで一日暮らせば、一月の給金を棒に振っても構わない。本当に金持ちは羨ましい。」
と口の中に呟(つぶや)きながら立ち去ったが、この給仕の背影(うしろかげ)が家の中に隠れるや、又暫くにして、一人の男が、庭の裏門から忍び入り、木陰木陰を伝いながら、この涼亭に来て、非常に冷ややかに彼方此方を見廻して見ると、目の届く限りその身の外に人の気は無い。

 男は嬉しそうに、
 「アア待てば海路の日和とはこの事だ。毎日毎夜、様子を窺って居ても、どうしても充分な隙が無く、今日まで気を永くして居たが、到頭目的を達する時が来た。今日は常磐男爵も来て、大分話に実が入った様だから、もう園枝とその父と三人で茲(ここ)へ来るぞ。この瓶の中へ垂らし込んで置けば、三人とも日の暮れまでには死んで仕舞う。まあまあ無事に常磐男爵の財産は永谷礼吉に移り、己(おれ)がその半分を分けて貰い、彼の古松が何も白状しないうち、己は遠く遠く豪州へ落ち延びて、どの様な贅沢でも出来ると云うもの。有難い、有難い。」
と独り嬉しそうに呟くのは、これこそ先の日、永谷とカレーの旅館に一夜明かした、彼の皮林育堂である。

 彼はこの様に云って、衣嚢(かくし)から、何やら小瓶を取り出し、その中に在る水のように澄んだ液を、たった今、給仕が置いて行った飲み物の瓶に滴(たら)し込み、その瓶を二三回振り動した末、
 「サア、是で大願成就だ。」
と云い、掻き消す様に木の茂りへ隠れ去った。

 四辺(あたり)は唯寂として静まりかえり、天上天下唯一人さえ彼のこの悪事を認めた者が居ないのは、まだ彼の悪運の強い所か。
 抑々(そもそ)も又園枝と男爵と侯爵との身に、まだ運が開かないものなるか。彼が消え去ってから、僅かに五分程度経るや、園枝と男爵と侯爵と三人は、家の方からこの涼亭に来て、卓子(テーブル)を囲んで腰を下ろし、男爵は先ず、

 「アアこう暑い盛りに、茲(ここ)でこの冷たい物を飲む味は実に忘れられない。」
と云い、伏せてある三個のコップを起こし、彼の瓶を取り、飲み物を一様に注ぎ入れるに、今迄幾度となく男爵の身に禍(わざわ)いした彼の恐るべき毒薬が、この中に潜んでいるとは思い至る筈もなく、園枝は先ず第一にコップを取り、

 「お先に頂きます。」
と会釈して、口に当てると、男爵も侯爵も同じく取り上げ、渇いた喉へ唯一飲みに注ぎ込もうとする。積年の苦労が漸(ようや)く終わり、是から楽しい世界に入ろうとする三人が、今茲(ここ)に頭を並べて死するのも知らないのは、誠に傷心(しょうしん)《悲しむべき事》の限りと云わなければ成らない。




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