巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune155

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.3.28

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

         捨小舟  後編   涙香小史

                    百五十五

 皮林の毒薬で全身不随となった大佐、今は同じ皮林の悪計の為に身体の機能を回復し、併せて又園枝と侯爵と男爵とを九死の際から救う事が出来た。之を奇と云わずに何を奇と云おうか。
 事は総て偶然に起こった様に見えたが、造化の配剤は往々にしてこの様なものであるがそれが頼もしい。

 是から男爵は、皮林が毒薬を混じた彼の飲み物を重鬢先生に送り、事の次第を詳しく報じると、先生は直ぐに皮林が英国へ急ぎ帰ろうとするに違いないと見破り、急使を以ってその旨を英国警察署に通報したので、皮林は幾日も経ずして、英国の入り口であるドバで捕縛せられた。

 又小部石(コブストン)大佐は意外な事から、言葉を発し得る事となってからは、その後は日々に快方に向かい、十日ほど経た頃は、杖に縋(すが)って庭内を散歩する事が出来る程となり、口の利(き)き方は又一層速やかに回復して、昔の大佐と殆ど変わらないようになったので、医師も感心すること一方ならなかった。

 この様な類(たぐい)の病人がこの様な類(たぐい)の驚きで、突然に身体の機能を回復する事が有る事は、多くの書にもその例が記されて有るとは云え、実際に見たのは今が初めてであると言い、更にこの向きならば、一年を経ないうちに、大佐は昔の通り健全な身に復すだろうと請合った。

 大佐がこの様に回復したことは、ただ一同の喜びとなっただけでは無い。何となく折り合いが悪い節の有った、男爵と侯爵との間を、最も円く柔(やわら)げる仲裁(なかだ)ちとなったのだ。
 大佐は男爵に向かって、園枝に対する過ちの彌(いや)が上にも重かった事を説き、大いに将来を謹むのでなければ、再び園枝の良人(おっと)になる事は出来ないと言い聞かし、又侯爵に向かっては、男爵の過ちが重いとは云え、園枝をこれまで取り立てた親切は、容易に忘れる事は出来ない。特に園枝と男爵の間は、まだ表向きは夫婦なので、侯爵が親の威光を以ってしても、之を全く割き尽くすのは難しい。

 何事も円く治まるのを本意とし、園枝と男爵を元の仲に帰らせるのが一番だと、理を分け情を尽くして説くと、侯爵は大佐を旧友として一方ならず尊敬する上に、彼の毒薬の事があってからは、三人の為に命の親であると言い、深くその恩に感じた為、大佐のこの言葉を拒むことが出来ず、更にじっくりと考えて返事をしようと云うまでに至った。

 その中に英国では、悪人古松と皮林との裁判が、前後に引き続いて始まり、両人とも己の犯罪に余るほどの証拠が現われた為、最早包み隠すことも無益と知ってか、古松はその身の履歴を悉(ことごと)く述べた上、更に皮林が常磐家に加えた悪計まで言い立て、皮林も又ヤルボロー古塔の一条は勿論、その外男爵に対し、園枝に対する陰謀の次第を、落ちも無く白状したので、日ならずして皮林は死刑に処せられ、古松は二十年の徒刑で、ノアホルルク島に流される宣告を受けた。

 彼の年齢で二十年の流刑は、終身の刑も同様なので、彼の横山長作もこれで漸(ようや)く船長立田の仇を復すことが出来たと言い、一方ならず喜んで、直ちに探偵を罷(や)め、小部石大佐の家扶となった。

 独り男爵の甥、永谷礼吉だけは、皮林が捕われた事が聞こえて来た時、直ちに男爵の留守宅から、有り金を盗み取って逃亡したが、仏国(フランス)の巴里に潜み、その金の有る間だけは贅沢を尽くし、その金を使い果たすや、身に一芸の無い悲しさに破落戸(ごろつき)同様の境遇に堕落したと見え、数年の後、或る最も下等な博打場で、同じ破落戸(ゴロツキ)仲間と喧嘩し、何者とも知れない相手に打ち殺され、無籍者として葬られた事が、重鬢先生から密かに男爵へ知らせて来たが、男爵は自ら汚らわしいとして、何人にも語らず、努めて彼のが事を忘れようとしたのは、余ほど経た後であった。

 古松と皮林との裁判が終わるや、英国の社会は彼らの悪事に驚くと共に、園枝夫人の貞烈に殆ど譬(たと)え様のない迄に驚いた。夫人が前年毒婦として、又不義者として捕縛され、証拠不十分の為予審廷から放免せられた事は、当時既に新聞にも記され、特に貴族社会、交際社会では是を英国上流の面汚しであると言って、夫人を嘲(あざけ)り、更に男爵をも物笑いの種とした程だったので、今この夫人に対する疑いが、悉(ことごと)く晴れたばかりか、その貞烈は古からも類も無い程であること分かり、特に「伊国(イタリア)第一の豪族、牧島侯爵の一女と云う不思議な素性から、既に侯爵と邂(めぐ)り逅(あ)った事まで聞き及んでは、世に是程までも不思議な事は無いと言い、何れの写真屋何れの絵草紙屋も、何れの所から種を得たのか、園枝夫人の肖像を、店先に懸けない店は無く、果ては殆ど何(ど)の家にでも、夫人の姿を額とする程となった。

 尚、其の昔男爵又は園枝夫人に一面の識のある者は、遥々(はるばる)仏国(フランス)まで慰問状を寄せ、特に甚だしいのは、牧島侯爵をさえ同道して、是非共この国に帰られよ、何々の宴会に臨まれよと、紹介状を送るまでになったので、男爵は勿論、牧島侯爵の喜びは一方ならず、恨んだ心も全く解け、
 「アア是で愈々(いよいよ)英国の人が、悉く娘の潔白を認め、娘に罪を謝る様に成った。」

と言い、園枝を再び男爵の妻とすることに同意し、それのみならず、英国に旅行してその貴族社会に交わりを結ぼうと言い出したので、この年の末に及んで、園枝と男爵に小部石大佐を併せ、侯爵と共に四人で英国に至り、朝廷の宴会にまで召されて参列する事となり、園枝夫人は実に英国第一の美人として、幾百の貴婦人に顔色なからしめた事は、今もなお聞き伝えて、記憶する老人があるほどだ。

 しかしながら常磐男爵は、永くは英国に留まる事を欲せず、夫婦の名誉が、この様に回復すれば、この上に望みは無いと云い、翌年の夏の初めまでに、一切の用意を整え、その身の老後は気候温和な伊国(イタリア)で送る事とし、又四人で伊国に行ったが、茲(ここ)でも人に尊敬せられることは、並大抵では無かった。

 娘二葉の外に、更に数人の児をさえ挙げたので、その一人を牧島家の相続人となし、殆ど昔の物語にある様に、枝も栄え茂って治まったと言う。

a:514 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花