巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune20

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.13

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

            二十

 大切な話と聞き、園枝は一旦は怪しんだけれど、又思えば、我が身の修行もほとんど終ったので、是から我が身を伊国(イタリア)に連れて行き、大音楽場に上そうとの相談に違いない。その外には立会人を遠ざけるほどの大切な話はないだろう。この様に思って、非常に平気に、

 「ハイ、前からお話の音楽場へ、私を入れて下さるお話でしょう。」
と言うと、常磐男爵は寧(むしろ)ろ喜ば無い様に、かえって又一層真面目となり、
 「イヤ、そうでは無いよ。和女(そなた)を、この上音楽に深入りさせるので無く、もう音楽で身を立てるなどと言う望みは、総て廃(や)めにして貰わなければ。」

 園枝は驚き、
 「エ、音楽を廃めまして、私の身が何で立ちます。音楽の外に、後々身を繋(つな)ぐ頼りの無いのは、貴方が好く御存知では有りませんか。」
と殆ど恨む様に叫んだ。
 男「オオ、和女(そなた)はそれほど音楽を愛するのか。」
 園「ハイ、音楽を命だと思って居ます。」

 男「では音楽で諸人の前に立つ望みを棄てて仕舞うのは、きっと和女(そなた)の身には辛いだろうな。----大劇場の大立者と持て囃される見込みを、思い切って仕舞うのは。」
と殆ど腫れ物に触る程の用心で問来る。

 男爵の言葉は何と言う、迂(まわ)り遠いことか。余ほど言い出しにくい事を言い出そうとして、先ず園枝の心を探ろうとするのでなければ、この様にまで迂(まわ)り遠い筈は無い。しかしながら園枝はその迂(まは)り遠さにも心付かず、唯自分の思うままに、

 「ハイ、私は未だ大劇場の大立者などと、その様な事を考えた事は有りません。唯音楽だけを愛するのです。自分の部屋で唯一人音楽を奏しても、私は心の清くなる気が致します。是が音楽の徳だろうと思います。ハイ、音楽を奏して居る間は、この部屋でも天国の様に思われ、何も彼も忘れて仕舞います。世界一の大音楽場に上っても、音楽の徳がこの部屋より増そうとは思いません。」

 男「だが、音楽場に上れば、大勢の見物や大勢の聴衆(ききて)が、和女(そなた)の為にヤンヤと云って大喝采の声を上げ、和女の顔に見惚(みと)れ、声に聞き惚れ、酔った様になって感心し、四辺(あたり)を忘れて褒め立てる様になる。和女はこの様な大喝采や褒め言葉を、早く聞き度いと思いはしないか。大音楽場に上る前には、何(ど)の音楽師でも、心が飛び立つほど嬉しいと言う事だが、和女もきっとその通りであろう。今更その場に上るのを廃(や)めなさいと云えば、さぞ落胆するで有ろうがーーー。」
と言い掛けて、返事を待っている。

 園枝は何やら悲しそうに頭を振り、
 「貴方は先年、私が街(まち)の敷石の上に倒れ、飢え凍えて居る所をお救い下さったのを、お忘れになりましたか。ハイ、私は公衆の前で歌い、ヤンヤと褒められた事も有ります。褒められた果てはアノ通りです。大音楽場とは何の様な所だか知りませんが、居酒屋の前で歌うのとその訳は同じです。或時は競馬の場所などでも歌い、貴公子などと言われる方々からお褒めにも預かり、身に余る祝儀など投げ与えられた事も有ります。

 ハイ、大勢に褒められる事が、何れほど嬉しいかは、私は良く知っています。褒めるのは辱めるのと同じ事です。褒美を下さるその方は、必ず後で私を立腹させる様な事を申します。ハイ、一つ花束を投げ与えられれば、後で何の様な事を言われるかと、私はゾッとしました。褒められるのが五月蝿(うるさ)くて、それでアノ様に零落(おちぶ)れて居た事は、貴方が好く御存知でしょう。

 私が音楽を愛するのは、人の喝采や褒め言葉を好むからでは有りません。音楽ばかりを愛するのです。音楽の音の続く間は、世の邪険を忘れて居ます。それで私はこの生涯を、音楽の裏に埋めるのを、この上も無い幸いだと思って居ます。人が聞こうが聞くまいが、褒めようが褒めまいが、その様な事は何とも思って居ませんのです。」

と今まで男爵が聞いた事も無い程に熱心な口調で、その心の底を語るのは、南方暖国の気性が機(おり)に触れて溢れ出で、自ら制す事が出来ない為とは云え、唯この世の邪険を忘れる為、音楽の裏に生涯を埋めようと云うに至っては、何と言うその決心の悲しいことか。

 男爵は感じ入って、深く心を動かし、しばらく園枝の顔を打ち見守るばかりであったが、漸(ようや)くにして、我に復(かえ)り、
 「イヤ、園枝、ここよりも庭に出て、茂る樹の影に憩(やす)み乍(なが)ら話しすれば、気も清々と晴れるで有ろうし、人に妨げられる心配も無い。」
と云うのは、余り調子が高くなった園枝の心を打ち鎮め、我が言葉を入り易くしようとする為だと知られる。

 園枝は唯男爵の言葉のままに立ち上がり、父に従う娘の様に、非常に素直に男爵に従って、庭に出た。
 是から如何の様な話があるのだろう。


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