sutekobune28
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 前編 涙香小史 訳
二十八
如何に定め無き世であるからと言って、これ程までも睦まじい男爵夫婦が、皮林育堂の言う様に、浅ましい境遇と成り果てることが有り得るだろうか。しかしながら皮林は少しも疑わない様子で、
「本当だよ君、安心して待って居たまえ。其の時には男爵の財産は残らず君の者だから。」
と聞いたが、永谷礼吉はまだ半信半疑で、
「爾(そう)だろうか。本当に爾なるだろうか。」
皮「成るとも。僕が請合う。」
永谷はこの恐ろしい言葉に、少しその身を震わせ、
「併し誰の力でその様に成るのだろう。」
皮「無論、僕の力でサ。」
と言い切り、更に聞く人が有りはしないかと気遣う様に四辺(あたり)を見回し、声を潜めて、
「だけれど僕は、無代価でこの様な大事業をする事はお断りだよ。ここで君と充分に約束して、愈々事の成った暁は、報酬は幾何(いくら)と明らかに定めて置かなければ。」
永「それは僕だって恩を知ら無い人間じゃ無し。君のお蔭でこの財産が我が物となれば、充分にお礼はするよ。」
皮「お礼、ナニお礼などはして貰い度く無い。手に取って目方の有る正金で幾等と言う手数料を貰わなければ。」
永「お礼も手数料も同じ事サ。」
皮「先ず、男爵の所得は一年五万ポンド(凡そ現在の30億円)と言うことだが、その三分の二が君に伝わる者と見ても、君の歳入は三万ポンド(現在の18億円)以上には成る筈だ。サ、年に三万ポンドの所得が有れば、相続の日から向う満二年の間に、僕に正金三万ポンドの手数料を払うのは敢えて六ケしく無い。即ち所得の半分を二年の間僕に払う丈の事だ。爾(そう)すれば、僕は二年の間に凡そ二十五万円(現在の約18億円)ばかりの身代が出来る。君の身代に比べては、僅かに四、五十分の一サ。」
成るほど、千万以上の大財産に比べては、僅かに四、五十分の一ではあるが、二十五万円とは恐ろしいほどの手数料なので、今は一年に二百金の所得しか無い永谷は目を見張り、
「エ、二十五万円」
と叫ぶと、皮林は忽ち気勢を折り、
「エ、二十五万円の手数料と聞き、君が驚く様ならば、決して僕から達っては勧めないよ。随分危険な、爾(そう)サ、命掛けの仕事だから。それより下では引き受けられない。この相談は是れ切りで廃(やめ)て仕舞おう。」
永谷は又驚き、
「待ちたまえ、そう短気な事は言わずに、先ア待って呉れたまえ。君の言う事は余り意外だから、殆ど僕には受け取り兼ねるが、本当に伯父の財産が僕の物になると決まれば、それは三万ポンド位の手数料は君に遣るのサ。」
皮「本当か。」
永「本当とも。」
皮「それではその事を白い紙へ黒い墨で書き、判然と約束し給え。」
永「約束する。約束する。するが何う書けば好い。」
皮「ナニ、僕に宛てて、一万五千ポンドづつの約束手形を二枚呉れれば好い。一枚は今より一年の後に支払い、残る一枚は二年の後に支払うと言う事にして。」
永「フム、その様な約束手形を出して、若しも、財産が僕の物とならなかった日には。」
皮「イヤ、その様な心配は無い。男爵の財産を相続しなければ、無効だと言う返り証文を僕から君に差し入れて置く。だから安心して認め給え。サア、茲(ここ)に僕が手形用紙を持って居る。」
と言い、早や二枚の用紙を取り出し、永谷の前に差し附けると、永谷は益々驚き、
「何だ君は、既にこの様な用意まで。」
皮「爾(そう)とも、僕は学者と商人を兼ねて居るのだ。この様な事に失念(ぬかり)は無い。何でも約束と言う者は早く取極めて仕舞わなければ、得てして魔が指すものだ。」
と言った。
永谷はその意に従い、用紙の表に金額と我が姓名とを書き入れながらも、皮林がこの様な悪事を相談するのに、悪魔の様に落ち着いて、通常の人が善い事を相談するより、もっと静かに構えるのを見ては、殆ど限り無い恐れを催し、
「本当に君は悪魔だよ。見掛けに似合わない大胆な男だよ。平気な顔の裏に、様々の悪計(わるだくみ)を隠し、一寸の落ち度も無く、考へ廻して居るとは、僕は恐ろしくなって来る。」
皮林は非常に冷たく笑い、
「僕も自分でそう思う。本当に悪魔だよ。併し、永谷君、悪魔なればこそアノ通り、幸福に世を送る新夫人を奈落の底へ引き込む事が出来るのサ。通例の人間には出来ない事だ。悪魔でも愈々新夫人を退治して、この財産を君の物に仕て仕舞えば、君は僕を神の様に思うから見て居給え。新夫人の為には悪魔、君の為には救主サ。」
と言い終って、永谷が認(したた)めた二枚の手形を検(あらた)めて、衣嚢(かくし)に納め、又物凄く打ち笑う様は、真に情け有り心ある人間では無い。永谷はこれを見て、歯の根までも寒いのを覚えた。
悪魔、悪魔、これから彼は、如何なる禍を、男爵の幸いなる一家内へ、降り下(おと)そうとするのだろうか。
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