巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune29

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.22

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                二十九

 男爵の邸に来て集える様々の客の中に、倉濱(くらはま)小浪嬢と云う、非常に交際に長けた一人の令嬢がある。嬢と云えば、年非常に若そうに聞こえるが、当年満二十六歳である。十七歳にして、初めて社交界に上り、爾(そ)れ以来満九年の間、様々の場所を踏み、様々の人と交際(つきあ)ったので、人を怒らせることも、笑わせることも唯だ心の儘(まま)で、嬢の舌一枚は良く人を活(いか)し、又良く人を殺すことが出来る。

 褒める様に言って、実は誹(そし)り、労(いた)わる様に言って実は傷付けるなど、凡そ人と交わる術に於いて、何一つ知らないことは無い。
 唯嬢が身に気の毒なのは、満二十六歳の今日が日まで良人(おっと)を得ていない一事である。

 嬢が美貌は衆に優れ、特に着飾りも巧みで、非常に華美(はなや)かに作っている。思いを寄せる人も無いわけでは無かったが、未だかつて我が意に叶う様な金満家の紳士から、縁談を申し込まれた事がなく、哀れや今は花の盛りを、みすみす過ぎようとしている。

 嬢が身は富裕では無い。所得と言ったら、母の遺産から生ずる利金が、一年に二百金有るだけで、殆ど衣服の料にも足りない。一人の兄があるが罷役の士官で、妹の身を支えるのに足りない。
 嬢は金満家の良人(おっと)を持つ外に、後々を支えるための工夫が無いので、年一年に気を揉んでいるが、年一年にその見込みは薄くなるばかり。

 唯だ幸いに、遠い親類縁者が有るため、それ等の家を訪い廻って逗留し、成るべく費用が少ない様にして、体裁の好い様に世を渡っているが、十九、二十歳の頃は、幾等でも嬢に貸し込むのを断らなかった仕立て屋その他の商人まで、嬢が次第に三十に近づくのを見ては、貸し込みを後にして、催促を先にし、世の中総て嬢の為には、窮屈になって行くばかりである。

 嬢は容貌の美しさと、装いの巧みな為、まだ二十一、二かと思われる程であるが、露出(むきだ)しの若さと、作った若さとは自ずと違う所がある。口善悪(さが)ない紳士の中には、
 「ナニ嬢はもう三十の上だろう。己(おれ)が初めて見たのはもう八、九年前だけれど、その時から同じ事だ。」
などと云う者もある。嬢自らも明るい窓に出で、熟々(つくづく)鏡を眺めては心細い事も多い。

 「愈々良人(おっと)が手に入らなければ、後々の身の上は何うなるだろう。」
などと、自ら心配して、嘆息することも度々だとか。
 嬢の最後の望みは、その心の底の底では、実は当家の主人常磐男爵に託して居た。それでタイムス新聞の紙上に、男爵が婚礼の報道を見た時、嬢の絶望は永谷礼吉の失望より優るとも劣らなかった。
 
 男爵は我が身の様な者を差し置き、何んで今まで名も聞いた事も無い女を娶ってしまったのかと、この度の招きにも殆ど嫉(ねた)み半分で応じ、新夫人の落ち度を見出そうと云う決心だけで、急いで来たものだ。来て見れば腹立たしい事ばかりで、第一男爵と新夫人の非常な睦まじさが腹立たしく、次には新夫人が我が身より美しいのが腹立たしく、我が身より年若いのが腹立たしく、更に新夫人には何の落ち度も無いのが何よりも腹立たしい。

 そうは言っても、飽くまで交際の秘訣を知る嬢なので、その様な色は毛ほども見せず。男爵に向っても我が笑みのうちの最上の笑みを浮かべて喜びを述べ、新夫人園枝には一粒選りの打ち解けた言葉を以って、
 「本当に貴女と私は一対のお友達ですよ。是からは姉妹の様に致しましょう。」
などと言ったが、新夫人は親しみがまだ深くないので、心にも無い慣々(なれなれ)しい言葉を吐くはずは無く、他の客と同じように唯丁寧一方な返事をしただけだった。
 是もまた、満二十六歳である倉濱小浪嬢の癪に障る種とはなった。

 しかしながら、嬢の心は誰も知る者は無く、唯その嬉しそうな言葉を聞き、その美しい笑みを見て、嬢こそは心に蓄える恨みも無く、気に掛ける借金も無く、身に重なる満二十六歳の年も無く、婚礼盛りの愛らしい令嬢とばかり思うが中に、彼の皮林育堂だけは、その鋭い眼で、何時の間にか見て取ったと見え、或時永谷礼吉に打ち向い、

 「アノ倉濱小浪嬢は屹度(きっと)今まで男爵の妻になる積もりで居たのだろう。」
と云った。永谷は驚き、
 「君は愈々悪魔だよ。何うしてその様な事が分かる。実は僕が未だ勘当されずに、伯父の許(もと)に居る頃の事だが、嬢は屡々(しばし)ばこの家に来て、何うにかして男爵を擒(とりこ)にしようと必死に運動を試みた。僕は其の頃から伯父が妻を迎えては困ると思い、内々気を付けて居たが、伯父は嬢の容貌にも才知にも充分感心はしたけれど、妻にすると云う心は更に無く、唯だ話し相手として、付き合う丈の様子だったから、僕も安心したのだが、

 嬢も流石にそれと見てか、その後は僕の方へ笑顔の方向を転じて来た。勿論僕がこの家の相続人と極まって居たから、嬢は両天秤に掛けて置けば、何方へ転んでも同じだと思ったのだろうよ。僕から一言縁談を申し込めば、直ぐ応ずる様に成って居たが、僕は何と無く、アノ嬢の心の中が恐ろしい様に思い、成るたけ避けて居る中に勘当され、嬢と今まで逢はなんだのサ。」

 皮林は頷(うな)ずいて、
 「フム、君が嬢の心をそう見破ったのは感心だよ。嬢の心中は実に危険だ。笑顔の必要な場合は、何時でも笑みを浮べ、爾(そう)サ、人を殺してもまだ笑顔を頽(くず)さないと云う質(たち)だ。しかし僕の今度の仕事には中々必要な道具だよ。」

 永「道具」
 皮「爾(そう)サ、何の様な細工にも良く切れる道具が要る。道具を旨(うま)く捜し出して、旨く使うのが上手な細工人と云う者で、僕は丁度あの小浪嬢の様な道具が欲しくて、先日から客の中を探して居た。君、僕の仕事は是からだと思い給え。今は本当に適当な倉濱小浪嬢と云う、活(いき)た道具が見付かったから。」
と云った。

 この悪魔にこの道具。如何なる惨嘆の細工が、現われて来ようとするのかは分らない。


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