巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune30

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.23

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

         捨小舟  前編   涙香小史 訳

            三十

 嗚呼(ああ)、禍は常に幸いの中に隠れて居る。この様に皮林育堂が、深い企計(たくらみ)を廻らせているとは、誰一人知る者が無いので、男爵夫婦も来客一同も、この家のことを人生の極楽世界かと思い、日と無く夜と無く打ち解けて打ち交わり、唯歓笑娯楽に時を過ごした。実(げ)にも羨ましい境遇である。

 この様な中にも、一同の客から取り分けて親しまれるのは、彼皮林育堂である。彼は良く学問を知り、俗事を知り、良く語って、良く人を慰め、骨(かるた)に、玉突きに、何一つ人より一歩秀でないものは無い。特に彼が妙を得ているのは、洋琴(ピアノ)を弾く技芸である。社交界に競合する、紳士貴夫人達の事なので、誰もがその技を持たない者は無いけれど、皮林育堂ほど、その弾奏の巧みな者は稀である。

 彼れの洋琴(ピアノ)に新夫人園枝の音声を合わせれば、真に天下の双美とも云うほどで、人々は仮令(たと)えイタリアの大音楽場に行っても、之れより上の音楽は、聞けないなどと云い、毎夜二人に所望するので、夫人は主となって歌い、皮林は従となって洋琴(ピアノ)を弾く。一夜毎に調子が上がり、一回弾く毎に妙を覚える。

 勿論、新夫人の音声は限りないほど豊かにして、麗しいけれど、皮林のピアノ伴奏がなければ、これ程までに、自由自在に現し得ないだろうと思われる所がある。男爵も皮林のピアノの為に、我が妻の技が益々妙を現すのを喜び、好き客を得たものだと、或時彼に向い、その技能を賞すると、皮林は少しも誇らず、

 「イヤ、貧家に育った私の様な者は、種々(さまざま)の芸を知らなければ、身を立てる道が無いと思い、物心覚えてこの頃まで、唯だ芸事の稽古に許(ばか)り掛って居ました。その中にも音楽は天性の好きですから、最も身を入れて習いましたが、併し、ナニ、新夫人の芸とは雲泥の相違です。

 新夫人は真に音楽の天才と云う者で、この後も何(ど)れほど上達するか分らず、私は唯、天才の無い者が、無理に勉強して叩き上げた丈ですから、この後幾等苦しんでも、是より上は登りません。今でも夫人の声と夫人のピアノには、殆ど節を合わせる事が出来ないほどです。」
などと云った。

 勿論夫人の技には、未だ遠く及ばないけれど、連弾者(つれびき)としては、充分夫人を扶(たす)けて余り有る。
 この様にして一夕、毎(いつ)もの様に夫人と皮林は大喝采の中に音楽台に上り、合奏を始めたが、この時、男爵は好い席を客に譲り、自分は余ほど離れた窓の際で、感心して聞いて居ると、漸く第一曲が終り、是から第二曲に移ろうとする頃、フト我が傍らを見ると、何時の間に来ていたのか、彼の当年満二十六歳と聞こえた倉濱小浪嬢、自分と並んで座していた。

 嬢の様に、万事に通じた社交家の褒め言葉は、男爵が特に尊敬して聞くのを喜ぶ所なので、男爵は聊(いささ)か謙遜して、我が体を少し斜めに嬢が方に向けると、嬢は今聞いた音楽に深く心を動かした様子で、

 「本当に新夫人は、音楽の技を天から授かって生まれ出た方ですよ。咽喉と云い、指先と云い、何うして彼(あ)アも自由自在でしょう。特に新夫人は皮林さんの様な達者な連弾者(つれびき)を得て、何れ程かお楽しみな事でしょう。」
と云った。お楽しみとは新夫人の良人(おっと)であるこの男爵に向かって、取り様に由り、幾等か耳障りの言葉だが、男爵は気にもしない様子だ。小浪嬢は更に何気ない調子で、

 「新夫人ほどお上手ならば、却って連弾者は邪魔になり相な者ですが。ネエ男爵、私共でさえ、何方かと云えば、連弾者が邪魔になります。」
と云い、又更に、
 「尤も、アアも達者な方が、親類の内にお在りなさって、そうして連弾を仕て呉れるのは格別です。」
 男爵は初めて聞き耳を立てて、
 「親類、---親類とは何の事です。」
と問う。

 浪「イヤサ、新夫人にアレ程、音楽の達者な従兄弟がお有り成すっては、さぞ楽しい事だろうと思いますから。」
 男「エ、エ、従兄弟とは。」
 浪「ハイ、皮林さんは夫人の従兄弟でしょう。そうではおあり成さらないのですか。」
と云い掛けて男爵の顔色を見、初めて口のすべったのに気が附いた人の様に、

 「オオそう、そう、私の思い違いでした。阿兄(あに)さんを従兄弟と間違えるとは、先ア、私も何たる疎々(そそ)っかしい女でしょう。オホホホ。」
 極まり悪るそうに打ち笑ったが、男爵は中々笑うドコロの場合では無い。

 小浪嬢は間髪も入れず、ダメ押しの一歩を進め、
 「夫人の婚礼前のご名字を伺わない者ですから、この様な疎(そ)そうをするのです。御免下さいまし、男爵。そうでした、皮林園枝嬢と仰りましたっけネエ。」
と恐る恐るの様に問う。

 男爵は我が妻の婚礼以前の事を、推(お)し問われのを好まず、婚礼前に名を知られないのは、即ち素性の無い女にして、この問は当然の様ではあるが、取り様に由り、非常に我が妻を、辱めるにも同じことなので、額に青い筋の現われるのを隠す事が出来ず、この様な場合には不似合な程鋭い声で、

 「妻は牧島園枝です。牧島家の一女です。」
と言い足し度いことは山々なれど、家と指して云う、その家を知ら無いので、どうする事も出来なかった。
 「ハイ、皮林では有りません。育堂氏と兄妹でも何でも無く、少しの縁も無いのです。」
と言い切った。小浪嬢は何とも呆れた様な調子で、

 「オヤ、本当にネエ。」
と叫んで間を合わせるだけ。
 「本当にネエ」の一語、是れは訳も無く、意味も無い言葉で、この様な場合には適当な句ではあるが、嬢の口から出るには、その声の出し方に、一種何とも云はれないほど、不愉快な意味がある様に聞こえる。

 この様な所こそ、嬢が満二十六年の経験で、交際の技に長けた所であり、褒めながら謗(そし)り、謗り乍(なが)ら褒める。皮林が嬢を大事な道具と見たのも、嬢のこの様な技量を見込んでの事に違いない。

 男爵はまだ何事をか言い度い様に、眼の角を尖らせて、キッと嬢の顔を見ると、嬢は宛も我が言い過ぎたのを、悔やむかの様な体で、故(わざ)とその顔をそむける。
 この決着はまだ中々に面倒である。


次(三十一)へ



a:219 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花