巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune32

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.25

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                三十二

 最愛の我が妻が、早や人の口端に掛る様な振る舞いをしているのか。男爵はこの細語(ささや)きの声を聞き、実に毒矢を胸の底に射込まれたより、もっと痛いのを覚えた。若し男爵が、良く小浪嬢の人為(ひととなり)を知っているならば、或いは聞き流す事が有ったかも知れないが、男爵は小浪嬢が如何(どれ)ほど腹黒いかを知らない。

 かつて我が妻に為ろうとして、密かに運動をしていたことを知らない。我が身を憎み、新夫人を嫉(ねた)んでいることを知らない。唯この嬢が、今しも男爵が窓の外に来たのを知り、聞こえよがしに故(わざ)とこの様な毒語を放ったのを知らない。唯だ嬢を清浄無垢の人とばかり思い、故意に我妻を中傷する様な人だとは、更に思いも寄らないのだ。人の噂は、常に噂の種と為る様な事が有る為に起こる者とばかり思っている。

 アア我が妻園枝と皮林育堂とは、既に小浪嬢が噂するほど親しいのだろうか。婚礼してまだ二月と経たないのに、既に我が身の目を掠(かす)め、人の口端に掛かるのをも憚(はばか)らないのか。否々、否、園枝に限って、そのような事が有る筈は無い。たとえ有るとしても本心からの事では無い。

 まだ交際に慣れない為、他人に如何ほどの親しみを許して好いか、その度合いを知らないので、加減しかねて人にその様に見られるのだ。唯一時の過ちである。明日にも我が口から良く言い聞かそう。必ず自ら改めて、再び後ろ指を指される様な事は無いだろう。そうだ穏やかに、紳士と貴婦人の間に守るべき交際の振り合いを、説いて聞かそうと思い定めた。

 この様に漸(ようや)くに思い定めると共に、心の痛みはやや軽くなるのを覚えたけれど、一旦既に疑いが萌(きざ)しては、根からその疑いを抜き去る事は、容易に出来るものでは無い。事に触れ折に触れて、益々強く募り行くのが、疑いと云う心の常である。

 イヤイヤ、若しも園枝に少しもそのような覚えが無いとすれば、この様に云い聞かすのは、甚(はなは)だ気まづく、却(かえ)って之が為に我が心の浅墓なことを訴え、夫婦の情を隔てる様な事とも成るだろう。若し又心あって、皮林と親しくする者ならば、我から用心を促して、二人の間を益々忍びやかにし、到底証拠の上がらない様にしてしまう訳になる。そうして、我が疑いが何時まで経っても晴れる時が無くなる。そうだ、一層の事、何事も知らない顔で密かに二人の振る舞いに気を付けて見ていよう---。

 アア、良人(おっと)として、既にこの様な心を以って、妻の挙動に気を附け始める、これは夫婦の和合を破る本である。
 我れは我妻を疑うのでは無い。唯だ気を附けるだけなのだと言っても、既に疑がっていなければ、殊更に気を付ける筈は無いのだ。

 ここに至って、男爵の心には、早や疑心が満ち満ちて、眼前に暗鬼が現れようとしているのだ。この疑心、若しこの上に唯一分、唯一厘募って行けば、直ちに嫉妬の火焔(ほのほ)となるだろう。危うしと言うほかは無い。

 男爵はこの様に決心し、この夜は何事も無く済ましたけれど、唯だ疑心の暗鬼に迫られ、眠ろうとしても眠る事が出来ない。或いは疑い、或いは打ち消し、一夜を苦悶の中に明かしたが、翌日は朝の間から充分に気を附け始める。

 既に疑う眼を以って見れば、何事も疑いの種に成らない物があるだろうか。彼れ皮林育堂の目的は、只管(ひたすら)この様に男爵に疑いを起こさせて、夫婦の仲を割こうとすることに在るので、男爵が何時見ても、彼れ育堂の眼は必ず偸(ぬす)み見る様に、夫人の顔に注いでいる。夫人が隅に行けば隅を眺め、外に出れば、気遣(きづか)わしそうに、窓から覗(のぞ)こうとする様に見え、妻を労わる良人(おっと)の眼でさえも、この様に親切そうに行き届くことは不可能だ。
 この様にさえ見えるのに、彼は自ら男爵に見られていると思う度(たび)に、遽(あわただ)しく眼を他に転じ、何気無い体を装う様は、何う見ても姦夫の態度である。

 是よりも更に怪しいのは、彼れが夫人の心と夫人の望みを、一々に先取りして、只管その心、その望みに応じようとする様に、たとえば夫人が窓に凭(も)たれていて、少し吹く風が寒むそうに見えれば、彼は如何(いつ)の間にやら外被(うわぎ)を持って行って、夫人に捧げ、夫人の読む本に、未だ切れ離れて居ない紙面があれば、彼必ず小刀を取って行って、夫人の為に之を断ち、夫人が音楽台に到ろうとすれば、男爵さえも未だ心附かないうちに、彼れが行ってその台の塵を払い、その椅子の向きを直すなど、その注意の様子は譬(たと)えようも無い。

 また彼の足踏みは抜き足では無いが、抜き足より更に静かな程で、男爵が少し見ぬ間に、何時しか夫人の傍に至り、又何時(いつ)しか夫人の傍を去る。その上に、彼れが夫人の傍に有れば、必ず何人にも聞こえないほど低い声で、夫人に細語(ささや)き告げている様に見える。夫人が之を聞いているのか聞いていないのかは定かでは無いが、男爵の眼には、何やら受け答えする様な様子が無いでもない。

 アア、是が疑わずに居られようか。男爵は唯だ一日見張っただけで、その疑いは、岩よりも堅く我が胸に塞がって、解くに解けない。知らないのは良人(おっと)ばかりとやら聞くが、自分はどうして、今日が今日まで、皮林のこの怪しそうな振る舞いに、気が附かなかったのだろう。唯一つまだ心に落ち兼ねるのは、我が妻園枝が、果たして皮林のこの様な振る舞いに、心附いて居るのかいないのかだ。

 心附きながらも拒まずに捨てて居るのだろうか。アア拒まずに捨て置くからこそ、皮林が益々この振る舞いを続けているのだ。妻が内々に彼れの親切を嬉しく思い、口にはそれとは云わなくても、何れかの挙動で密かに彼を励ましていなければ、彼れが何うしてこの様に、その親切を募らせる事があるだろか。最早やこの上を疑い惑うには及ばない。妻と皮林は小浪嬢の云う通り、

 「この儘(まま)に捨て置いては、何の様な仲に成るかも知れない。」
ことになる。
 それにしても、この様に気付くことが出来たのは、唯私一人だろうか。
 否、否、否、私以外に気の附いた人が有ればこそ、
 「気の附かない男爵がお気の毒だ。」
などと噂するのだ。

 アア、
 「素性も知れない無教育な女なので、貴婦人の操も知らない。」とは根の無い謗(そし)りでは無いと、男爵は一々小浪嬢の言葉を思い出し、ひしひしと胸に釘を打たれる想いがするばかり。
 ここに至っては、最早や貴族中の貴族である男爵ではなくて、心は嫉妬に荒れ狂う悪魔だけ。嗚呼(ああ)、又嗚呼。


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