巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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sutekobune33

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.26

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                三十三

 たとえその素姓は分らなくても、今まで何一つ非難すべきところの無い我妻が、よもや良人(おっと)の目を掠(かす)めて、心を別な男に移す事は有る筈が無いと、男爵は何度も思い直したが、皮林育堂の怪しそうな振る舞いは、何う見ても訳無い人とは思われない。それに我が妻が五月蝿(うるさ)い顔もせず、彼れ皮林の親切を受け、為すが儘(まま)に打ち任せて、拒まないのは、皮林を励まして、益々皮林を自分の傍に引き寄せようとするのと同じ。最早やこの上の証拠を見るには及ばないと、嫉妬の心は常に男爵を煽動(そその)かして止む暇無し。

 男爵が、若し一歩その心を平らかにし、園枝の今の位置と今の場合とを考えて見れば、真に清き我が妻を、これ程までに疑おうとする、我が心の浅墓さが、恥かしくなるはずだ。園枝はこの家の新夫人として、初めて客に接する身である。それに又、是から男爵夫人として、男爵に手を引かれて、社交界に連れて出られ、天晴れ男爵夫人よと尊(たっと)まれて、益々男爵の地位名誉まで高くしなければ成らない身である。

 初めて客に遭(あ)う席に於いて、万一にも客の機嫌を損じ、男爵家に不似合いな、交際の作法も知らない女であると云われるならば、何うする。身を粉にしても、総ての客に及ぶ限り満足させ、新夫人が来てからは、男爵家は宛(まる)で一陽来復した様に、非常に居心地の好い家になったと云われたい一念である。敢えて男爵を差し置いて、自分の誉を得ようとして居るのでは無い。唯だこの様にする事が、男爵への勤めとばかりに、思っているからなのだ。

 是れは実に男爵家の夫人としては無くては叶わない心掛けで、別に皮林育堂にだけ、親切なのではないのだ。笑顔を以って来客一同に接し、一同を一様に非常に機嫌好く待遇(もてな)して、眠ても落々とは眠らず、唯だ自分が、来客から謗(そし)られる様な、落ち度が無い様にと、辛いのも厭わずに、待遇(もてな)している様は、一同が密(ひそか)に感心する所であるのに、独り男爵だけは、園枝が外の来客に対しても、一様に手厚いのを打ち忘れ、園枝と我が身を恨む、陰険な一婦人の毒舌に迷わされ、皮林の深い企計(たくらみ)を見破ることが出来ない。

 燃え上がる疑いを以って、妻と皮林の振る舞いだけを見、我が心から輪に輪を掛けて、独り妬(ねた)んで自ら苦しむばかり。
 ここに至っては、心に浮ぶ事は皆妬ましさの種で、
 「アア、皮林は我よりも年若く、十九、廿歳(はたち)の我が妻に、丁度愛せらるはずの気質だ。
 我が妻は、アア、我妻はその器量、その振る舞い、総て貴婦人に似ているとは云え、根が大道の乞食である。私に救われ連れ去られるのを喜んだ様に、皮林に連れ去られるのを喜ばないことがあるだろうか。」

など、自ら忘れようと勤めた、過ぎ去った秘密まで思い出し、却って園枝が通常の乞食の様に、憐れみを売って男爵に救われようとはしなかった、其の健気な有様を忘れ尽くしていた。アア、人の心はこれ程までに欺かれ易い者なのか。

 男爵は寸刻も、我が心の安きを得ることが出来ない。疑うまいとするが、疑わずには居られない。最後に至り、漸く自ら慰めて、
 「イヤ、皮林育堂も、一個の紳士である。人の妻を迷わそうとする様な、破廉恥な男では無い。我が妻に優しいのも、唯だ交際に慣れたその人の性質からで、何れの婦人にもこの様にしているに違いない。真逆(まさか)に我が妻園枝にだけ、特別に優しくする訳は無い。」

と、この様に思い附いたので、その事を確かめる為め、密に甥の永谷礼吉に向い、
 「その方の友人、アノ皮林育堂氏は、大層夫人に優しくして呉れる様だが。」
と強いて何気なく言い出したが、憐れむ可し、男爵の声は日頃の何気無い声と違って、自分の耳にさえ異様に聞こえた。

 そう思うと声の響きは益々甲走るばかりだったが、咳に紛らせ咽喉を開いて、
 「アノ方は毎(いつ)も婦人方に向っては、あの通り優しいのだろうネ。」
 永谷は以前から、何から何までも皮林の指図を受けている事なので、ここだと思い、

 「イイエ、彼は化学者で、日頃から化学の試験だけに心を寄せ、女には振り向いても見ない質(たち)です。毎(いつ)も女は人生の邪魔者だなどと云い、自分から近付かない様にして居ます。けれど、ナニ、新夫人は通例の女と違い、アノ通りの御器量ですから、流石の皮林も平生の持論を貫く事が出来ないのでしょう。」

 この返事に男爵の最後の考えも全く消え、嫉妬の念は輪を掛けて燃えて来た。
 「エ、平生の持論が貫けない。では余ほど深く夫人の事を思って居るだろうか。」
 永「爾(そん)な様子です。初めの中は、絶えず夫人の噂をして賞(ほ)めて計(ばか)り居ましたが、今は私にさえ何も云いません。独りで居る時は、何だか無言(だまっ)て考えて計(ばか)り居ますよ。」

 男「何。考えて計(ばか)り居る。」
 永「ハイ、余り夫人の噂をしては、私に叱られるとでも思うのでしょう。併し、伯父さん、夫人ほどの美人では、毎(いつ)でも二人や三人は感心して考える人が出来ますよ。」
と云って軽く笑い、永谷はその儘(まま)立ち去った。

 男爵は唯だ癪に障り、最早や我が妻と皮林との有様を、見ることが出来なかった。又我が顔を、多くの人に見られるのを、好まなかった。是からは、我が居間に引き籠りがちと成り、妻から優しい言葉を掛けられれば、その優しさが腹立たしく、過ぎた睦言の数々も、皆自分を欺く言葉だったかと思うと、憎さに胸も張り裂ける思いである。アア何うしたら、妻に欺かれる我が恥を、人に知られずに済むだろうかなど、我と我が身で、我が心を苦しめるばかりなので、男爵の顔に再び笑顔の浮ぶのを見なくなった。

 流石に妻園枝は、誰よりも先に、男爵が尋常(ただ)ならず欝(ふさ)いでいるのに気付き、気遣わしそうに来て、問うこと幾度と云う数を知らなかったが、その度に男爵の返事は、唯だ邪険を増すばかりだった。

 果ては殆ど、
 「エエ、五月蝿い。」
と云わない計(ばか)りの口調で、刎(は)ね退けるかと思われる程にも至ったので、園枝は驚きが恐れとなり、一旦は如何したら好いのだろうと、独り私(ひそか)に泣き沈む程だったが、園枝の天性には、王侯も挫(くじ)くことが出来ないほど、非常に高く、非常に堅い所がある。
 かつて残酷な父古松から、世に類無い堅意地者と云做(いいな)された程なので、何時まで涙にだけ沈みはしない。

 何様良人(おっと)の心が、全く変わり果てたことは明らかなので、何の為に変ったのかは、察することが出来なかったが、我が身に何の落ち度も無い事は確かなので、その心もまた打解けることができず、再び良人(おっと)を慰め問おうとはせず、何となく控えめ勝ちに、又何となく遠慮勝に成って行くのは仕方が無かった。

 妻の遠慮は益々良人の疑いと為り、良人の疑いは益々妻の遠慮となり、漸く両人(ふたり)の間に恐ろしい隔てを生じ、一つの家に住みながらも、口を利く事さえ稀になり、次第に再び結び合せる事が出来なくなる、大破裂を生じようとしていた。

 誠に嘆いても嘆き切れないと云うべし。


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