巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune34

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.27

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

            三十四

 この様にして何事も無く一週間を過した。数多い来客にとっては、唯だ楽しみの外何事も無い一週間だが、常磐(ときわ)男爵とその妻園枝に取っては、針の山を辿るよりもっと辛い一週間である。交際の作法として男爵も園枝もなるべく何気ない顔を装い、客に向って主人である丈の勤めは尽くしたが、夫婦の中は一日一日離れて行くのみにして、今は全くの他人より、もっと余所余所(よそよそ)しく、敵の末とも云うような有様に立ち至った。

 園枝にしても、若し自分に過がち有れば、如何様に言い訳もし、又詫び入れもして、良人(おっと)の心を解くところであるが、園枝は自分が、露ほども道に欠けた所があるのを知らない。良人の不機嫌に気付いて、幾度かその仔細を問い、幾度かその心を慰めようとしたけれども、良人の心は一向に解けず。却って五月蝿(うるさ)そうに刎(はね)退けて、叱り付つるほどなので、この上に尽くす方法が無い。

 罪が無いのに何を詫び、何を言い訳しよう。唯だ無言で立腹する良人の振る舞いは、実に良人として妻に対する道を失う者である。之を邪険と云わなければ、何を邪険と言おうか。園枝に若し、歴然(れっき)とした里親があって、男爵の振る舞いがこの様だと、その有様を知ったなら、必ず理由無くして妻を苦しめる者として、園枝の為に離縁の訴訟をも起こし兼ねないだろう。

 園枝は男爵を恨んでは居ないが、自分に過ちが無いのに、それを自分から男爵に折れて出るのは筋が立たない。男爵から自分の方に言い訳して、機嫌を直す可き筈の筋であると思うので、人知れず涙を呑み、高く身を置いて、主婦たる日々の勤めを守り、唯だ男爵の方から解けて来るのを待つばかり。

 双方ともこの様な状況なので、何時の日か打解ける事があるだろう。男爵も僅かな間に、顔の色が非常に衰えて、復(また)と笑顔の無い人と為ったので、園枝の方は重なる心配に、耐える事が出来なかった。客と共に且つ笑い、且つ興じたが、是れは実に義理一片にして、今までその頬が輝き、満室の人々に、春風和気の想いを与えていた、晴れやかな笑顔は見る事が出来なかった。

 男爵は早くもこの状態を知り、是すら疑いの種に数え、
 「園枝が、若し我が為に心配しているなら、我に余所余所しい筈があるだろうか。その心に彼の皮林育堂への愛が通じた為め、遣る瀬無い想いに身を焦がし、自ずから窶(やつ)れて来ているのだ。
時々茫然として、何か物思う風が見えるのも、皮林の事を思っているからなのだ。アア、自分の今までの愚かさよ。素性も無い十九、や二十歳の一少女に、是ほどまで深く欺かれ、更にこの上にも益々欺き行かれ様とするか。

 園枝が我が妻となったのは、我が恩に感じたが為めでは無い。況(ま)してや、我を愛するが為で有る筈があろうか。唯だ自分の身の位置が低く、何の生業(なりわい)も、持って居なかったので、暫く出世の踏み台として、我が妻になる事を承知したものだ。今は踏み台の上に乗り、自分の位置が高くなった為め、最早や私を見て、用の無い廃物とし、何とかして思う男に身を寄せようと、その工夫に心を苦しめているのだろう。
 この様なことから考えると、倉濱小浪嬢が、園枝を皮林の昔馴染の様に云うのも、或いは真実(まこと)なのかも知れない。」
など、自ら疑いを探り求めて、止め度も無く苛立(いらだ)った。

 又或時は本心に動かされて、その疑いを翻(ひるが)えし、たとえ皮林が園枝に思いを寄せるとも、その罪、園枝に在りと云うべきだろうか。園枝は或いは未だ、皮林が自分に心を寄せて居る事は、気が付かないのかも知れない。寧(いっそ)の事、急に園枝を引き連れて茲(ここ)を立ち、再び何れかに旅行して、暫し園枝と唯二人で日を送ろうか。そうすれば、五月蝿(うるさ)い客人等、二人の後に随(つ)いて来ることは出来ない。

 この屋敷で、楽しむだけ楽しんで帰り去るだろうなどと思ったが、是れは到底為し得ることでは無い。社交の作法と云う者が、文明の紳士を縛るのは、昔の手枷(てかせ)首枷などと云う者が、罪人を縛ったことよりもっと厳重である。

 主人として招いた客を捨て、夫婦で旅行する事が許されるだろうか。アア、自分は彼の怪しく疑わしい皮林育堂を、追い去って妻の傍に近づけ無い様にする事さえ出来ない。是も実に文明の作法に背くからだ。
 この様な場合に於いて、男爵の為に一廉(ひとかど)の力と為り、事の真偽を噛み分けて、大いに男爵の心を慰める事が出来る人は、唯だ小部石(コブストン)大佐一人である。

 大佐が若し茲(ここ)に居たなら、たとえ男爵からその疑いを打ち明けなくても、必ず男爵の欝(ふさぎ)勝ちな挙動で、大抵は察し知り、磊落(らいらく)な裁判を下して、何の憚(はばか)る所も無く、男爵の迷いを唯だ一笑に付し去って、心の雲を吹き払う事は必然だが、悲しいことに大佐は、男爵が初めてこの疑いを起こした頃から、非常に強い通風症を引き起し、この邸の離れ座敷に引き籠ったまま、出て来ることすら出来ない。

 唯だ幸いに、園枝がこの人を良人(おっと)の第一の老友と思うが為、充分その介抱に意を注ぎ、看病婦を付き切りに侍らせて、自分も日に幾度と無く問い行って、親しく慰めはしていたが、勿論端下なく自分の憂さを色に現す事などはせず、偏(ひと)えに自分の良人に誠を尽くす一端とだけ思って、或いは面白い読本を送り、或いは花、或いは果物、いやしくも大佐の心を慰める様な物は、一として贈らない物は無い。

 更に時々は、病人の乏しい食気を進める様な、珍味を料理し、特別にその枕元に捧げるなど、王侯の受ける看病も、是以上のものは無いと思われるほど気を付けるので、大佐はこの夫人に、悲しい事が有ろうとは、夢にも思わず、夫婦仲が益々裂けて行くのに任せるばかりだった。

 そうは言っても、この様な仲は、穏やかに裂ける事は出来ない。生木を割るのも同様なので、必ず凄まじいまでに、恐ろしい割け方を見る時があるに違いない。その時は遠くもない。早や眼前に近付いている。
 前から男爵が、来客を待做(もてな)そうと、遊興として数多く計画した献立の中に、大遊山と云う一つの箇条があって、これこそ来客一同が、如何(どれ)ほどか面白いだろうと楽しみにして待っているもので、前から定めてあるその日取りを、今日か明日かと、指折り数える程であったが、今日は漸くその前日となった。

 誰がこの楽しむべき大遊山に、如何なる禍が伏しているか知っていようか。


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