巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune42

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12. 5

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 四十二

 暗澹として暗い樹。ひゅうひゅうとして寒いのは風。上は澄み渡る秋の夜の月あって、葉越に人を照らして青い。これこそ皮林育堂が常磐男爵の新夫人園枝を連れて行く山路である。
 それはそうと、皮林は彼の遊山場を離れ、最早や見る人無しと思われる山の路に掛ってからは、馬車を走らせること宛(さ)ながら矢よりも疾(はや)く、木の根岩角に馬が幾度か躓(つまづ)こうとするのを厭わず、只管(ひたす)らに鞭を当てて、馬車は前後に揺れ、左右に傾いて、倒れようとすることが有っても、少しも怖れず、唯だヤルボロー塔に達するのが、一刻も速いのを思って居るようだ。

 園枝は未(いま)だかつて、この様に馬車を走らせたことは無い。或時は眩暈(めまい)がするかと疑われ、又或時は風に向かって我が息が塞がるのを感じた。しかしながら良人を思う一念に、苦しいのも総てかまっていない。漸くにして道の較(や)や平らかなる所になって、皮林は初めて口開き、

 「夫人、貴女は恐ろしく有りませんか。」
と問う。
 「イイエ、是でもまだ遅い様な気が致します。何うぞ急がれるだけ急がせて戴きましょう。」
と園枝は答えて、独り心を推し鎮(しず)めながら、熟々(つくづく)と考えて見て、
 「この様な異様な場合に臨み、周章(あわ)て惑う事が有っては、良人(おっと)の傍に行っても、介抱が出来ない事になる。切(せめ)ては上部(うわべ)だけも、落ち着かなければならない。」
と又幾度か胸を撫でながら、

 「皮林さん、良人は一命も危うい程だと貴方はお認めになりますか。」
 皮「イヤ、何うも確かには言い切れません。一応親しく拝見した上でなければ、ハイ、全体使いに来た子供が露出(むきだ)しの田舎者で、唯だ男爵が山路で馬から落ちて怪我をして、ヤルボロー塔へ連れ込まれて居ますから、早く来て下さいと、是だけしか云わないのです。私はその子供の言葉よりも寧ろ様子に拠って、其の怪我の容易ならない事を察したのです。」

 園「何で又、古塔の様な不自由な所へ連れ込まれたのでしょう。」
 皮「塔の番人が見出したのですから、ハイ頭を打って気絶したまま見出されたとすれば、実に容易ならない大怪我です。」
 園「でも古塔の外に、何所か抱き込むような住まいが、有り相な者ですのに。」
 皮「イエ、あの辺は三哩(マイル)四方に一軒も家は有りません。」

 矢の様に飛ぶ馬車の中で問答は是だけがヤッとである。この後は二人とも無言で唯馬の走るに任せた。
 抑(そもそ)もヤルボー塔と云うのは、千余年前、英国の内地に群雄の争いの絶え間ない頃、時の領主が築いた屈強の砦で、今は城跡とも云うべき程の零落であるが、かつて幾許の英雄茲(ここ)に拠り、血流れて川を為し、骨重なって谷を埋めた、聞くも恐ろしい古戦場である。

 だから今も未だ雨が降る夜には、燐火陰々と青く燃えて、鬼哭秋々(きこくしゅうしゅう)《亡霊のたたりで恐ろしい気配がして、物凄い様子》の想いがある。この三里以内に来る者は必ず禍に罹るなどと言い伝え、追々に住む人さえ居無くなった。園枝はこの様な由来までは知らなかったが、塔に近づくに従って、何と無く物凄いのを覚え、馬車の前後を見回すと、道は益々高く登ったが、身は何故か低く低く地獄の底に沈み行く様な感じがした。

 頓(やが)て馬車は塔の月蔭になる一方に達して留まり、園枝は皮林に扶(たす)けられて降り出ると、何千年来重なる落ち葉は露に湿(うるお)い、踏むに従って凹込(めりこ)みて、陰気な臭いを放った。その気味悪さは、譬えようも無かった。想わず知らず細語(ささや)いて、

 「何だか恐ろしい所ですネエ。」
と云うと、
 皮「ですから私は独りで来度(た)くないと申したのです。」
と答えた。この一語を聞き、園枝は忽ち我に復(かえ)り、自分が恐ろしいなどと云うべき場合では無いのを知り、

 「イエ、決して貴方の足手纏(まと)いには成らない様に勤めます。」
と云い切ったが、是からは少しも恐れる所なく、皮林と共に歩んだ。
 行く事数間にして、非常に深い堀の際に達し、更に行く先を眺めて見ると、堀の彼方は大石で築揚げたこの塔の入り口である。葛(かつら)などが絡んで茂った様子で、唯だ物凄く見える外、一物をも見分ける事が出来なかったが、絵に書いた往古(いにしへ)の石牢に、この様な石門が聳(そびえた)っているのを見た事がある。茲(ここ)に至っては、誰でも殆ど逡巡(しりごみ)しない人は無い程だが、この先に我が良人が傷ついて倒れて居るかと思い、焦がれる貞女の念は、その耐忍に限りが無い。

 園枝は首を延ばし、左見右見(とみこうみ)して、塔の中を此方(こちら)から覗いて見て、
 「皮林さん、何の窓からも灯火(あかり)が差して居ませんが、---良人男爵はーーー真逆(まさか)に真っ暗闇の中には、寝て居ないでしょうに。」
 皮林は怪しみもせず、
 「多分は向う側に面した室だろうと思います。それで此方(こちら)へは灯火(あかり)が射(さ)さないのでしょう。」
と云った。


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