巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune44

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12. 7

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                四十四

 アア、大怪我と聞いた常磐男爵は本当にこの古塔には居ないのか。そうすると彼、皮林は何の為に、園枝をこの様な所に連れて来たのだろうか。園枝が怪しんで問うのも無理は無い。皮林は徐徐(そろそろ)とこの問に答え、
 「そうですね。何故貴女をこの塔に連れて来たか、それには中々込み入った訳が有ります。先ず一口に約(つづ)めて言えば、私と今一人の或人とが、両人(ふたり)で利益を得る為です。ハイ、或人とは外でも無く男爵の甥永谷礼吉です。」
と説き明かす様に言ったが、園枝はこの様な言葉が耳に入る猶予なし。

 その意味を解しもせず、
 「ですが、男爵の大怪我は何うしました。一刻も心配です。男爵を捨てて置いて、何で私をこんな所へ!」
 皮林は更に落ち着き、
 「イヤ夫人、男爵の怪我と云うのは嘘ですよ。貴女を茲(ここ)へ連れて来る為、私が作ったのです。ハイ、貴女を騙したのです。男爵は怪我も何もせず、全く無難で常磐荘園へ帰って居ます。」

 男爵は本当に何の怪我も無く、安全にその家に帰っているのか。園枝は之を聞き、心の重荷が全く弛(ゆる)み、
 「本当ですか。本当に男爵は無事ですか。」
 皮「勿論です。怪我したと云ったのは私の作り言です。」
 園枝は非常に嬉しそうに胸を撫で、更に有難く天を拝んで、

 「アア是で安心しました。アア、有難い、有難い。」
と今まで胸に凝り固まって居た太い息を発(ホ)っと吐いた。皮林はこの様に園枝が安心する様を見、月に輝くその顔が益々美しくなったのに驚き、さてはこの婦人、真実に男爵を良人として愛し、良人の身の上を心底から、この様にまでも心配していたのかと、熟々(つくづく)怪しんで、園枝の顔を打ち見守るばかり。

 園枝は漸(ようや)く安心して心の猶予が生ずると共に、皮林がこの様にこの身を欺(あざむ)いて、この古塔に連れて来たその無礼の許し難いのを思い、腹立たしさが胸に湧き、殆ど抑(おさ)える事が出来ない程となり、鋭く皮林の顔を睨(にら)んで、
 「良人が怪我もしないのに、何の為め貴方は私を欺(あざむ)きます。貴方の振る舞いは何うあっても許されません。」

 云っても皮林は驚かず、
 「イヤ、その訳は今も云った通りです。ナニ貴方が許すの許さないのと仰(おっしゃ)っても、その様な事は構いません。そうです、許すと許さないとは貴女のご勝手、少し長いが詳しく事の次第を言い聞かせて上げましょう。先ず心を押し鎮(しず)めてお聞き成さい。」

 園枝は益々憤り、
 「その様な言い訳を聞く暇は有りません。たとえ何の様な訳が有ろうと、貴方の無礼は消えません。サア、直ぐに私を我が家までーーー、ハイ、常磐荘園まで連れ返して貰らいましょう。」
と云い、皮林が応じ様とする様子が無いのを見て、更に言葉を励ましながら、

 「貴方は私に無礼を加える許(ばか)りで無く、私の良人をまで辱しめると云う者です。良人常磐男爵の立腹を怖れませんか。この様な事まで男爵の耳に入れ、余計に心を労せさせるのは、決して私の本意では有りませんが、貴方が直ぐに私を連れ帰って呉れないとならば、何も彼も男爵に訴えなければなりません。」

 皮林は嘲笑(あざわら)う様な調子で、
 「私は少しも男爵を恐れません。今までは知らない事。今から後の貴方が何を云ったとしても、決して男爵は貴方の言葉を取り上げません。男爵は今夜限り全く貴方を見捨てて仕舞います。」

 園枝はこの様な失礼者にこの上口を利くのも汚らわしいと思ったのか、十二分の賎(いや)しみを眼に浮べ、皮林を見降して、
 「ナニ、貴方が連れ帰って遣らないと云うならば、ハイ、私は独りで帰ります。」
と云い、先刻潜(くぐ)った閾(しきい)の方に立ち去ろうとすると、皮林は戒(いまし)める様に、手を開いて遮(さえぎ)り止め、

 「イヤ、独りでは帰られません。階段が滑りますから、独りで降りるのは危険です。たとえ無難に階段だけ降りた所が、古塔の外へ出る事は決して出来ません。」
 園「とは何う云う訳で。」
 皮「何う云う訳だか、先ずこの欄干の様な銃眼の上から下をご覧成されば分ります。」
と云い、彼は立って凹凸形の所に凭(よ)り掛かりながら、自ら下を見降ろすので、園枝はその言葉に従うとも無く同じく行って、下を見ると、唯一目で恐ろしさに耐えられない様に身を震わせて跳ね返った。

 彼の深さ幾十メートルとも知れない堀の絶壁に懸けたた吊橋、何時の間にか、その一方の吊り鎖を切り放たれ、向うの岸にブラ下がるだけ。此方(こちら)から渡る方法は無い。夜とは言えど、この有様は、照る月に見誤る筈も無い。若しや横手か後ろ手には濠の無い所も有るに違いないと、園枝は更に四方に行き、残る方なく見廻したが、濠は天然の断崖に似ているが断崖では無い。

 千余年の昔、敵の来くるのを防ぐ為、深く深く掘った者で、塔の四方を一様に廻っていて、天に翔(かけ)る翅(つばさ)が無ければ、行く事は出来ない。
 園枝の見込みは全く絶えてしまった。


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