巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune47

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.10

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                四十七

 心は千々に紊(みだ)れるけれど、最早や夜の明けるのを待つ外無しと、一旦思いを定めてからは、泣きもせず、恐れもせず、唯だ泰然と凸凹形の銃眼に身を寄せて、東の天を眺めて待つ園枝の姿の、その静かなることは、石にでもなったのではないかと、疑われほどだ。 皮林育堂はこの静かな姿を見て、只管(ひたすら)に感嘆しない訳にはいかなかった。

 彼は唯だ、己れの不義非道な心に比べ、今まで女とは男の弄(もてあそ)び物に作られ、男の心一つで、如何様にも動かされる者とばかり思って居たが、園枝一人は彼が今まで見た幾千幾万の婦人達と同じでは無かった。男子も及ばない、確乎とした気概がある。

 通例の婦人ならば、唯だ恐ろしさと唯だ悲しさとに伏し転(ころげ)廻り、泣き崩れる場合なのに、園枝は殆ど寄り付き難いまでに、高く身を置き、心の苦しみを示さ無いのは、実に是、人間以外に隔絶した女ではないかと、彼は怪しいまでに目を見開き、園枝の顔を熟々(つくづく)と打ち見守って居たが、頓(やが)て敬服に絶えられないかの様に、更にその傍近くに進み、

 「イヤ、夫人、貴女がこの悲しい場合に、溜息一つお洩らし成さらないその勇気に、唯だ感服の外は有りません。貴女の様な顔も心も美しく、この世に二人と無い程の貴夫人を敵にするのは、好い気持ちは致しません。ハイ、慈悲と云う事を感じた事の無い私でも、貴女がその様に静かに悲しみを堪へ忍んで居る様を見ては、何(ど)うか助けて帰して上げ、その上今まで企計(たくらん)だ仕事も残らず廃(や)めて仕舞いたいと、それ程までにも思いますが、唯だ止めるにも止められ無いのは、是が浮世の儘(まま)ならないと云う者です。

 夫人貴女も好く御存知でしょうが、世の中と云うものは、欲と欲との戦場です。正直者と云われる人でも、金の為め、財産の為には随分気に済まない不義理の事を企(たくら)みます。私と永谷とが貴女を相手に闘っているこの勝負も、ご存知の通り、唯だ欲の一方で、欲と欲、そうですね、先ず死に物狂いの欲とでも云うのでしょう。

 結局は貴女の良人常磐男爵が甥の永谷を勘当して、死に物狂いに成らせたのが悪いのです。恨むなら常磐男爵をお恨みなさい。私とて貴女を、この古塔へ誘い込む大胆な仕事をする前、幾度も考へ直しては見ましたが、矢張り永谷同様の死に物狂いで。実は命懸けで始めたのです。命懸けのこの仕事を、今更貴女が可哀相だからと言って、廃(やめ)る訳には行きません。この様な死に物狂いの両人に敵に回られた、常磐男爵の妻に成った貴女の不運と、ハイ、何うか断念(あきらめ)て戴きましょう。決して貴女を憎むのでは無く、唯だ常磐男爵の財産を、横取りする者を憎むだけです。」

と宣告の様に、又言い訳の様に述べ来たって、園枝の一言の返事を待って居たが、園枝はこの様な悪人と口を利くのさえ、汚らわしいと、全く見下げ果てたと見え、こちらにその顔を向けようともせず、依然として静かである。皮林は更に返事を得ようとして、様々に言葉を掛けたが、園枝は身動きさえせず、益々皮林を賤(いや)しむばかりだったので、今は仕方が無く、園枝の傍から離れ、衣嚢(かくし)を探って、葉巻の煙草を取り出し、燐寸(マッチ)を擦って、煙を吹かし始めたけれど、自分がこれ程まで賤(いや)しみ果てられるかと思うと、不愉快で仕方が無かった。

 園枝の方が、若し悲しさに耐えられずに、泣きもし、叫びもしたならば、一点の慈悲心も無い皮林は、之を憐れとも思わないばかりか、却って心地好しとまでに満足もしただろうが、泣かず騒がず、唯だ無言で我を賤しむ様を見ては、アア我が身は天性この女より下賎の地に立ち、終に自らこの女を眼下に見る力が無いのかと、一種の失望と一種の恨みが湧いて来て、我と我が胸を刺し、その身は虫けらと成り果てた心地がして、殆ど居たたまれなくなった。

 そうとは云え、皮林がこの様に自ら苦しむ間にも、園枝は夜の明けるのが遅いのに耐えられなかった。果ては自分の今まで過ごして来た日々まで、今更の様に思い出されたが、窓に凭(もた)れて東天の白むのを待ったのは、今夜が初めてでは無い。かつて古松と云う父の家に在って、悪人と船長と掴(つか)み合う音を聞き、縊(くび)り殺される声をも聞き、岸に生い茂る草木を分け、死骸を水に投げ沈む響きをも聞き、唯だ恐ろしさに夢も結ばず、夜の早く明けて来ることを祈ったのは、今から僅かに三年足らずの昔である。

 それを思い、是を想えば、自分は人殺しの大罪人を父と呼んで居た女である。この頃に至ってこそ、良人(おっと)の愛に湿(うるお)って、栄華の中に身をも置いたが、人殺しの罪に繋(つな)がる者が、如何(どう)して幸福に一世を送る事が出来るだろうか。父に殺された人の恨みは草葉の陰から父を呪い、更にその子にも祟(たた)るに違いない。私は死人の恨みを受け、罪に汚れて浮ぶ事が出来ない天命なのだ。

 何時までこの世に生きて居ても、幸いと云う者が長く我が身に添うべき筈は無いと、空恐ろしいまでに考えさせられるのは、是も悲しさに、その神経が掻き乱れた為の、妄想では無いだろうか。


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