巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune5

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.10.29

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                   五

 少女園枝は既に二階に上りながら、何故まだ寝もせず、しょんぼりと心配そうに立って居るのだろう。これは今宵我が父古松に、この家に誘われて連れて来られた、船長立田の身を、気遣う為ででは無いのだろうか。

 古松はこの姿を見て、非常に無慈悲に、
 「何をグズグズして居るのだ。用は無いから寝て仕舞えと言って有るのに。」
と叱り付けると、園枝は屈する景色も無く、却(かえ)って父の心の底までも読み取ろうとする様に、その深い眼を充分に見開き、父の顔を見詰めたまま、

 「貴方は何でアノ船長とやらを連れて来ました。」
 古松は忽(たちま)ち園枝の手を砕けるほどに握り、
 「何で連れて来た、生意気な事を云うな。来たいと云うから連れて来たのよ。」
と云ったが、園枝がまだその眼を垂れ無いのを見て、更に、

 「爾(そう)サ、博打を打ちたいと所望するから連れて来たのよ。エ、ここまで云っても未だ分から無いか。負けても払いに困ら無い程の大金を持って居て、その大金を負けて仕舞いたいと云うから連れて来たのよ。ここまで聞けば分かっただろう。サア寝て仕舞え寝て仕舞え。」

 此の白ばくれた父の返事に、少女は恐ろしさに耐えられない様に、その声を震わせて、
 「ハイ分かりました。昨年もアノ旅人を連れて来た通りに、今夜も!」
 父「何だと。」
 園「船長とやらを連れて来て、勝負に負かし、其の挙句に喧嘩を初めて、ハイ昨年あの旅人に合わせたと同じ目に!」
と云い掛けたが、後は我が口に出すのさえ恐ろしいと言う様だ。だが言うのを止めず、
 「エ、お父さん。もうその様な手荒な事は仕て下さるな。無事に船長を帰して下さい。ハイ、命だけでも無事に!」

 古松はその目を全く三角にし、顔を少女の顔の前に突き付けて、
 「コーレ、俺のする事に口を出したり、後で他人に話したりすると是だぞ。又是だぞ。」
と大きな拳固(こぶし)を園枝の頭の辺で振り回し、更に念を押す様に、

 「英国と云う所は、お前の様な者が一人や二人亡くなったとて、誰も気が付く事は無い。俺が本当にこの拳固(こぶし)を振り回す時になったら、誰に遠慮も気兼ねも無い。お前が冥土へ逃げ込むまで振り回すぞ。」
と言い渡すのは、叩き殺すのも躊躇しないとの引導に違いない。少女は戦(おのの)きながらも更に抵抗し、

 「でも船長は貴方を善人と思えばこそ一緒に来たのです。それを昨年の旅人と同じ様な目に合せては!」
 古「又しても昨年の旅人旅人と、昨年の旅人が何うした。俺と博(ばくち)打を打った挙句、酔っ払って一足も立た無いのに、夜の明けないうちこの家を出てサ、翌朝見れば自分でこの下の堀へ転げ込んで死んで居た。全く自分の過失と云う者。俺の知った事では無い。」

 園「ハイ、貴方は警察へもその様に言い立てて、世間の疑いを逃れましたが、私は知って居ますよ。この家を出る前に死骸になり、担ぎ出されて堀の中へ投げ込まれたのです。私は夜通し聞いて知って居ます」
と益々募るがかりなので、古松は最早聞くに耐えないと云う様に、荒ら荒らしく少女の身体を前に後ろに引き揺すぶり、

 「エエ、下の客仁に荒々しい声を聞かせては悪いと思い、静かに聞いて居れば、止め度も無く叫(ほざ)きやがる。黙って寝ろ。」
と一声叫び、其の儘(まま)園枝を寝室の中へ投げ込む様に突き入れて、外から戸を締め、鍵を卸(おろ)し、
 「一時間経てば見に来るから、其の時未だ起きて居れば、今度こそ容赦は無いぞ。」
と戸の外から宣告して、古松は静々と降り去った。

 後に園枝はあれこれと思い迷いながら、胸の騒ぎを治める事が出来ない様に、部屋の中を前後に歩み、
 「エー、何うしたら。」
と深く深く絶望の吐息を発したが、頓(やが)て唯一方にある窓の戸を開き、身を半ば凭(もた)らせて、外の色を眺めると、黒白も分からない暗夜で、世界唯陰鬼の魔窟と為り果てたかと疑われる。

 この様な場合に、若し通例の女であったなら、必ずや知らず知らずに自ずから神に祈り、心の底から深く念ずる所であるが、悲しいことに、園枝は手荒な父の許に育った身なので、神があると云う事さえ教わらなかったので、神を祈る事も無かった。

 唯だ物心つかない昔、誰にか神の事を教えられたる様な気もするが、幼い頃の事は夢の様に忘れ果て、唯この父と世を徘徊(さまよ)い初めた頃の事から、薄々と記憶の底に残るだけ。その後今迄、唯世の中の意地悪なことを知り、意地悪な人が常に勝って、弱い者、正しい者は常に苦しみ、之を助け救おうとする神の威光が有るとも見受けられない。この様な境遇の中で成長したので、神の助けを祈らないのも当然で、唯慄々(わなわな)とする不安な思いを訴える所も無く、窓に凭(もた)れたまま控えていた。

 下の部屋では、父を初め、以前から聞き知る酒店の主人の声、初めて聞く船長の声と共に、面白そうに笑い動揺(どよ)めくだけだったが、動揺(どよめ)くのは、まだ博打の興が非常に浅い頃だからに違いない。頓(やが)て笑い声は漸く静まり、天上天下、一物の声も無く、地獄の底もこの様ではないだろうかと、唯身の毛が逆立つほど静かになった。

 「アア、昨年のあの夜も丁度この通りであった。初めは面白そうに笑って居て、それから次第に静かになり、それからーーー、それからーーー。」
と空しく考へ廻すうち、幾時を経たことだろう。忽ち怒り叫ぶ声、耳を劈(つんざ)く程に聞こえて来る。昨年の彼の夜の通り、勝負が終って喧嘩となったか。

 園枝は立ってアタフタと狼狽(うろ)たえながら、戸を開こうと押してみたが、錠は堅くて動きもしない。其の中に叫び声は組打ちの音となり、椅子飛び卓子(テーブル)覆える響きと変じ、家中震えるばかりであったが、最後に誰か非常に痛く投付けられたと見え、大木の倒れる様に床に響き、
 「ウーン」
と一声、死際の呻吟(うめき)の声が聞こえると共に、再び寂然と鎮まった。

 園枝は
 「アア、恐ろしい。」
と呟(つぶ)いて、そのまま窓の戸を締めて、最早その置き所さえも無い様に、遽(あわただ)しく寝台の上に身を投げたが、更に十分ほど経った頃、下から階段(はしごだん)を上る非常に重い音がするのは、古松と酒店の主人が検めに来るものに違いない。

 頓(やが)て戸の錠を開き、酒店の主人は外から覗き、古松独り手燭を持って入って来て、寝台の上の園枝の顔を差し覗きながら、火の光に照らして見ると、園枝は何事も知らず穏やかに息(やす)む様にその目を閉じ、呼吸(いき)の浪さえ、非常に安らかに寄せては返し、淀みが無い。古松は満足の体で、背後の相棒に振り向いて、

 「安心だ。安心だ。誰も知る事では無い。」
と云って再び元の様に退き降った。


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