巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune50

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.13

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 五十

 我が妻園枝が、皮林育堂と共に去ったと聞く、其の驚きと腹立たしさに、男爵は全く眼に朱を注ぎ、叫ぼうとしたが声も出なかった。倉濱小浪嬢は唯一人、園枝と皮林が立ち去った時の有様を、偸観(ぬすみみ)て知ったとは雖(いえ)ど、其の秘密は最も珍重すべき者なので、最後の時まで胸の中に蓄えて置く心で、茲(ここ)では云わなかった。

 唯だ客一同が知る丈の事柄を、言葉巧みに話し出し、一同が立ち去ろうとする時、急に新夫人の姿が見えないのに気が付き、一同は之を捜索する為、大いに帰りが遅く成ったと語り、更に新夫人だけでなく、皮林も見えないこと分って来て、様々に心配したが、下部(しもべ)の中に、皮林が、新夫人を小馬車に載せて、屋敷へ送り届けると云ったのを聞いた者が有る事が分り、初めて、さては二人とも、客を捨て置いて引き上げたかと、一同この様に安心して帰って来た事などを云い、成る丈男爵の心を騒がせる様、一々傍に立つ永谷礼吉を証人とし、

 「ネエ、永谷さん」
と念を押して告げ、永谷も其の度に、
 「爾(そう)です。倉濱嬢の仰る通りです。」
などと相槌を打った。
 男爵の驚きは実に譬(たと)える者も無い。流石は気位の非常に高い貴族だけに、客に対して、強いて其の驚きを押し隠し、
 「常磐家の夫人とも云われる者が、他人に背後(うしろ)指を指される様な事をする筈は無い。」
と云わない計りの色を示そうと、我慢の上に我慢したが、我慢で隠せる様な驚きでは無い。

 唯だ一目、男爵の顔を見れば、男爵が全く妻の不義を悟り、煩悶に胸も張り裂けるほどなのを知る事が出来る。
 しかしながら、男爵は更に耐えて、
 「イヤ、皮林氏は万事に行届く方ですから、園枝の疲れた様子を見て、労(いた)わって連れ帰って呉れたのでしょう。併し、其れが猶(ま)だ帰り着か無いのを見ると、途中で馬車でも倒れたか、それとも気分が悪くて医者の家へでも寄ったか、何しろ心配する程の事は有りますまい。」

と云い消すのは、只管(ひたすら)家名を思い、身分を思う為で、心中は如何(どれ)ほど辛いことだろう。
 アアこの様に勤めたが、更に耐える事が出来ない事があった。更に思ひ出した様に、
 「イヤ、心配は無いとは云え、此のまま置いては皆様に心配させる様な者、主人である私が打ち捨てても置けません。ドレ、途中まで下僕を見に遣りましょう。」
と軽く云ったが、是には全く我慢の綱も切れたので、下僕に命じる為と見せて、逃げる様に客一同の傍から退き、自ら下僕の控所に行って、最も厳重なる命令を下した。

 其の意は十人の下僕が、二人づつ五組に分れ、第一は本街道を、第二は右方の枝道、第三は左方の枝道、第四は俊足の馬に乗り、遊山場まで一直線に馳せて行き、気の付いた丈けの事を、成る丈至急に復命し、第五は途中の医師を初め、茶店、其の外、人が住んで居ると思われる所を、綿密に見て行けと云うところに在り。
 
 何と云う、
 「下僕を見せに遣りましょう。」
と軽く云った其の言葉に似ない厳重な命令で有った事か。
 男爵は是だけの事を命じたが、再び客の前に我が顔を示すことは出来ず、其の儘(まま)居間に退いて考えて見るに、
 「二人は何で帰らないのだろう。途中で怪我でもしたのか、将(は)た又、無名の手紙に在った様に、是が不義の証拠にして、二人とも唯だ痴情(あいじょう)に迫られて、身分をも打ち忘れるまでに至り、前後の思慮も無く駆け落ちをしたのだろうか。

 何度考えても判断が付かない。実に男爵は、園枝が道端に死骸と為って見出されたならば、我が心が如何ほどか休まるのにとまでに思った。
 大怪我の為、其の美しい顔も乱れ、死骸と為って現われて来れば、我が家の不名誉だけでも、免がれる事が出来る。若し駆け落ちと事が決まったら、この身を如何(どう)しよう。真逆(まさか)園枝が皮林などに欺かれて、駆け落ちするほどの、思慮の足りない女とは思われない。仮令(たと)え不義は働くにしても、家を捨て、身分を捨て、再び世間に顔向けの出来ない様な、愚かな事はしないと思うが、何の為、皮林と立ち去ったのだろう。

 此の家、此の庭、此の立派な荘園は、数知れない常磐家の一切の財産と共に、園枝の物と成り、子が生まれれば、其の子を当家の主人とし、園枝と此の財産を分かつまでに定めて有るのに、之を捨てて、書生同様とも云うべき、名も無い若紳士に見代えるとは、真に天魔に見入られたのかと、独り怪しんでは考え、考えては又怪しみ、立ったままで、部屋の中を廻(めぐ)りなどして、夜の明けたのも知らなかった。

 其の中に五組の下僕は、追々に皆帰って来て、近辺十マイル(16km)四方に、園枝と皮林の跡形無しと云うのに決した。
 アア怪我では無かった。駆け落ちである。園枝は愈々、英国に又と無い大財産と高貴の地位とを、一皮林に見代えたのか。怪しむべき限りであるが、乞食同様の生活を送った者は、再び其の生活を恋慕う事さえ有ると聞く。

 最早や痴情(あいじょう)の為め、此の家を捨てた者と見る外無し。男爵は何うしたら好いか分らなかった。唯だ他人に此の様を見られるのが、何よりも辛いので、自ら入り口の戸に、内から堅く錠を卸し、従者さえも近付け無い様にして、猶も様々の思いに沈んで居ると、朝の八時かと思われる頃、外から厳しく戸を叩く者があった。

 「コレ老友。戸を明けぬか。」
と叫ぶのは、聞紛(ききまご)うべくも無い、彼の小部石(コブストン)大佐である。男爵は殆ど憐れな声で、
 「イヤ、今朝ばかりは御免蒙(こうむ)る。お前にも逢う事は出来ないから。」
と云う。

 大佐は外から、
 「ナニ、己に逢ふ事が出来ない。爾(そう)は行かない。逢わなければならない用事が有るのだ。ヨシ、ヨシ、それなら一日でも二日でも、逢える時が来るまで、茲(ここ)に立って此の通り戸を叩(たた)き続けに叩いて居よう。」
と云い、太い杖の頭で、戸の板が砕けるほど、叩いて止まない。是れは磊落なる大佐の気質とは云え、抑々(そもそ)も大佐は何の用があって、この様に男爵に逢おうとするのだろか。



次(五十一)へ



a:611 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花