巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune52

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.15

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                五十二

 男爵は真に痛わしい迄に泣き崩れたが、漸くにして思い直した様に、憂き顔を上げて来て、
 「コレ、礼吉、園枝の逃亡に付いて、其の方は何の様な事を聞き込んだ。サア、聞かして呉れ。早く、サア。」
 礼吉は殆ど口を開いた事を悔いるかの様な様子で、
 「イエ、伯父さん、私が自身で知って居る訳では有りません。唯だ此の人に問えば、分るだろうと思われる人が有りますから、其の事だけ貴方にお知らせ申し度いのです。」
 男「オオ此の人とは何の様な人だ、ドレ誰が園枝の事に付いて其の方の知らない事まで知って居る。」

 永谷は間も置かずに、
 「実はアノ倉濱(くらはま)嬢です。嬢は明からさまに口には出しませんが、何か秘密を知って居るに相違無いと思われます。自分でも何やら知っていそうな事を先刻も私へ匂(ほのめ)かしました。兎に角、斯様(かよう)な場合ですから、少しでも知って居る人に、其の知って居る丈を聞いて見るのが当然かと思います。」

 流石親身の甥なればこそ、この様に親切に注意して呉れるのだなと男爵は感心して、
 「オオ其の通りだ、少しでも知って居そうな人があれば、聞いて見なければならない。ドレ、倉濱嬢を直ぐに之へ寄越して呉れ。直々に己(おれ)が問うから。」
と云う。其の心は若しも此の嬢に問えば、少しでも我が心配を軽くする様な返事も、得られるかも知れないと期待するからに違いない。

 永谷礼吉が此の命に従って退くと、間も無く入って来たのは、彼の二十六歳嬢である。嬢は少しも自分が男爵に問われるなどとは思いも寄らない人の様に、非常に無邪気な風を装(よそお)い、此の室に入って来た。

 男爵は余計な言葉を省き、答えなければ成らない様に問廻すと、嬢はこの様に問われてこそ、我が知る秘密の値打ちも出て来ると、心の中で限り無く満足したが、其の色は露程も見せず、宛(あたか)も答えるのが気の毒と思って、答えることが出来ない人の様に、少しづつ、実は成る丈男爵の絶望を深くし、成る丈園枝の罪を重くする様、我が見た丈の事を総て答えた。

 唯だ其の身が其の秘密を偸(ぬす)み見る一心で、木の茂り草のの茂りを潜(もぐ)って行き、新調の衣服が破れるのも厭(いと)わなかった事だけは押し隠し、何の気も無く漫歩するうち、心ならずも此の様を見た人の様に話したことは勿論である。
 男爵は聞き終わり、少しでも我が心が、休まるにかも知れないと思った頼みの綱は全く切れ、愈々深く絶望の底に沈んで、

 「では全く園枝が、非常に心が騒ぐ様子で、アノ皮林の手に確(しか)と縋(すが)り附いたと仰るか。」
 嬢「ハイ、何だか之から気の済まない仕事でもする人の様に、ソワソワとして落ち着かない様子でした。」
 男「シタが馬車に乗る時は、皮林が無理に園枝を載せましたか。」

 嬢「イイエ、」
 男「夫(それ)では彼の園枝が自分から乗ったと仰るか。」
 嬢「ハイ、何だか気の迫(せ)かれる御様子で、皮林より先に乗り、四辺を見回して、夫(それ)から皮林をを引き載せて。」
 男「エ、エ、」
 嬢「心配そうに見廻し、見廻し、立ち去りました。」

 アア、この様な確かな証人が現われたからには、復(また)何をか疑おう。之を駆け落ちではないとしたら、世に駆け落ちと云うものは無い。男爵は身も世も絶えたかと思う程の、非常に術無(せつな)い呻吟(うめ)き声を発し、
 「エエ、是ほどの恥辱が又と有ろうか。」
と打ち叫び、其のまま又も顔を両手に沈めた。

 流石の嬢も此の有様を見ては、殆ど一種の怖気(おじけ)を生じ、若しや男爵が発狂してしまいはしないかと、震いながら、更に少しの間立って居たが、男爵は顔も上げないので、再び問う様子も無い。嬢は一言二言、独り語の様に慰めの言葉を残し、拍子悪そうに男爵の前を抜け去ったが、去りながらも、心の中では、男爵が社交界に名も有り、経験も有る女を娶らなかった酬いに違いないと呟(つぶや)いた。

 この様にして、是から幾時間かを過したけれど、男爵は再び部屋から出ようとはせず、椅子に其の身を仰向(あおむ)けて、固く両の腕を組み、空中の何も無い所を眺めたまま、口をも開かず傍目(わきめ)も振らず、時々に其の腹の底の底から、深い呼吸(いき)を吐き洩らすだけだったのは、真に絶望の極度に達した有様と、云わなければ成らない。

 此の間に時は空しく移り、昼も早や過ぎ、日は漸(ようや)く西に沈んだが、男爵は時の移るにのも気付かず、窓から指す夕日の光りが、斜めに頬を射たが、立って窓帷(まどかけ)を引こうともせず、茫然又茫然として過すうち、誰やら此の間の入り口の戸を開き、静かに歩み入る一人あり。男爵は下僕が何の断(ことわ)りも無く入り来た者と思い、怒れる眼で屹(きっ)と其の方を振り向き見ると、アア是れ下僕では無く、妻園枝である。

 昨日遊山に着て行った草色の衣服は折り目も頽(くず)れ、見違える程乱れた上に、其の顔は殆ど草色の青さよりも青い。園枝は男爵が未だ一語をも発しないうち、非常に沈んだ音調で
 「貴方ーーー、只今帰って参りました。」
と云った。

 若し尋常の怒り方ならば、男爵の心は此の無事な姿を見、此の声を聞き、幾分か安まるところだが、今は何事があっても安まる様な度を越えて、一事一物皆怒りの種となる極限である。男爵は此の声に、宛も燃えようとして控えていた火が、風を得た様に、今までの無言無為を一時に発して、

 「何だ。何(ど)の顔を下げて帰って来た。其の汚れた身を以って帰って来て、此の上に、更に此の家まで汚(けが)す積りか。」
 其の声は、荒ら荒らしいと云うものではなかった。異様に沈んで力があった。何事が有っても、又再び解け柔らぐ事の無い声である。



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