巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune53

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.16

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 五十三

 「何(ど)の顔下げて帰って来た。其の汚れた身を以って此の家まで汚(けが)す積りか。」
 アア、一語凛然(りんぜん)《寒々として》として秋霜の如し。
 園枝は聞いて、我が身が早や既に全く不義者と見做(みな)されて、男爵の心の中から取り退(の)けられてしまったことを知った。

 昨夜古塔の上で、彼皮林育堂が
 「御身は帰って行って男爵に弁解しても、男爵は既に御身を不義者と思い詰め、何の弁解も聞くことは無いだろう。」
と云ったのは、非常に恐ろしき言葉なので、今も未だ記憶しているが、真逆(まさか)に我が良人(おっと)、我が恩人である男爵が、一言の弁解も聞かずに、我が身を罪する事はないだろうと、今が今まで思って居たが、此の剣幕は実に思っていたより恐ろしく、唯だ弁解を聞かないばかりか、一目我が姿を見た丈で、一言に叱り附けるとは、是を良人(おっと)の妻に対する道と云って良いものだろうか。

 作法を重んじる男爵が、是ほどまでに邪険なのは、尋常事(ただごと)では無いと、園枝は忽(たちま)ち、我が見込みが絶え果ててしまった心地がして、胸に恨みが込み上げて来て、
 「イイエ、私の身は汚れては居りません。貴方、若し貴方、貴方は先(ま)ア、唯だ私が一宵帰らなかった計りに、訳さえ聞かず、その様に仰(おっしゃ)るとは、夫婦と云う愛も情けも、貴方の心には消え尽くして仕舞いましたか。
 ハイ、私の身は汚れていません。貴方と婚礼した時も今も同じ事です。昨夜返る事も出来なかったのは、恐ろしい悪人の深い企計(たくらみ)に罹(かか)ったのです。ハイ、私の名を傷つけ、貴方に愛想を尽きさせて、此の家を奪おうとする、人非人に捕えられ、逃げ帰える道が無かったのです。」

 是れは実に、真実の心から迸(ほとばし)り出る言葉であるが、今が今まで思案に思案を重ね、様々の事情に照らして、園枝を罪深い女と見極めた男爵の耳には入らず、男爵は嘲(あざけ)る様に、非常に冷たい笑いを発し、毒蛇よりもっと忌(い)まわしそうに園枝を見て、

 「オオ、夫(そ)れが其の方の言い訳か、悪人の深い企計(たくらみ)に罹ったと言い張るのか。爾(そう)だろう。多分は大勢の悪人が手取り足取り攫(さら)って行き、今まで荒縄で縛ってあった為、帰り度くても帰られなかったと云うのだらうナ。自分から好み進んで行ったのでは無いなどと、黙れ、黙れ、コレ女、其の方の不義は何から何まで、もう充分の証拠が揃って居る。

 其の方が、遊山場から、恋しい男と抜け出る有様を見た者が有る。其の方は皮林育堂に縋(すが)り附き、自分から進み好んで馬車に乗り、殆ど皮林育堂を迫立(せきた)てる様にして、見廻し見廻しながら立ち去った姿を見られて居る。夫(それ)なのに、今は空々しく帰って来て、悪人の深い企計(たくらみ)に罹ったなどとは、余りに呆れて物が云え無い。嘘にもしろもう少しは旨く話しの辻褄を合わせ相な者だが。自分の身に覚えが有っては嘘も旨くは吐けないと見えるな。」

 誰がどうしてこれ程までの侮辱に耐える事が出来るだろうか。園枝の草よりも青かった顔は、聞くに従って殆ど火よりも赤くなったのを、必死の想いで耐え忍び、更に必死の想いで、其の声まで押し鎮(しず)めながら、
 「私が自分から好んで立ち去ったのなら、何で此の通り帰って来ましょう。」

 男爵は又声を鋭くし、
 「何で帰って来ましょうとな。サア何で帰って来たのか、云って聞かそうか。先ず窓の外を見よ。林も有れば庭も有り、目に余る花園には、霜枯れた此の時節にも花は絶えず、湖水には世界中の珍しい魚を集め、是が常磐家の常磐荘、サア其の常磐荘の庭園で唯だ此の窓から見た丈の所、更に眼の届かない後ろに行けば、田も有れば、鉱山も有り、山も水も英国中の宝を天然に集めて居る。

 是が残らず常磐家の財産だ。此の財産が有ればこそ帰って来たのだ。一時は唯だ痴情(あいじょう)の為めに前後を忘れ、地位も身分も顧みず、情夫と駆け落ちはしたけれど、不義の心が静まって考えて見ると、是ほどの財産を痴情(あいじよう)の為め、ムザムザ捨てるのが惜しくなり、夫(それ)だから厚かましく帰って来た。

 多分は何にも知らない良人(おっと)が其の方を待ち兼ねて居て、両手を開いて迎えると思っただらう。尤(もっとも)もらしい言い訳を拵(こしら)えて、一雫(ひとしずく)か二雫、涙を落とせばお人好しの良人だから、直ぐに心が解けて仕舞うと、この様に思っただろうが、エ、爾(そう)は行かない。

 成ほど、其の方の良人(おっと)は、今まではお人好しだった。何にも知らない馬鹿者であった。宛(まる)でもう愛に酔い、夢の様に浮かされて居たけれども、今は其の夢が覚めたのだよ。目が開いたのだよ。今覚めたのは遅過ぎる。遅過ぎて随分辛い覚め方では有る。けれど夫(それ)でも覚めた甲斐は有る。覚めた丈に此の上欺かれずに済むと云う者。コレ女、気の毒だが、其の方の良人(おっと)は再び夢には酔わないからそう思え。」

 園枝は殆ど叱り矯(たしな)める口調にて、
 「私に何(ど)の様な言い開きが有っても、貴方は夫(それ)をお聞きなさらずーーー。」
 男「オオ、己(おれ)を欺(だま)す為めに、旨く仕組んで来た偽りを、便々と聞いては居られない。サア是で用は無い。行け、情夫の許へ帰って行け。情夫皮林育堂は、人の妻を偸(ぬす)む様な立派な紳士だ。サア早く行け、夫(それ)とも情夫が受け付けないと言う為らば、其の方の故里(ふるさと)は寒い往来の石畳だ。俺が救い上げない前の石畳の上に帰り、再び人の家の軒下や、窓先を宿として、乞食の夢でも見て眠るのが、其の方の身には安楽だろう。」

 出れば出るほど酷くなる邪険な此の言葉は、愛に酔った男爵の心に起こる、一種の反動とも云う可きか。園枝は茲(ここ)に至り、敢えて多言を費やさず、天性の非常に気高い声で、唯一語、
 「貴方」
と叫ぶ其の声は、訴える様に、叱る様に、又是ほどまでに道筋の分らない我が良人(おっと)ではなかったのにと、天に叫んで恨むようにも聞こえ、一語は実に千鈞(せんきん)《非常に重い》の力があった。


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