巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune54

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.17

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 五十四

 心に非常な痛みがあり、其の苦しさに耐えられらずに、我知らず叫ぶ声は、是こそ学んでも得る事が出来ない真実の叫び声で、どんな悪人をも感動させ、急に憐れみを催させる事がある。まして悪人で無い人なら猶更だ。今園枝が唯一言、
 「貴方」
と叫んだ声は実に此の類の叫びである。良人(おっと)男爵が唯だ一夜の中に、この様に口汚く罵(ののし)るまでに、怒りの為に堕落したかと思うと、園枝は残念で仕方が無く、我れ知らず叫んだものだ。

 此の一語は実に男爵の身には、匕首(あいくち)を以って、心臓を刺し貫かれるより、もっと痛く感じた。怒った顔も、殆ど白く青くなった。しかしながら、悲しい哉男爵は、園枝が何事を言おうとも、其の言葉に動かされるべきではないと、既に思い定め、我が心を鉄よりも冷くした後の事である。

 一度こうと思ってからは、如何なる辛さをも我慢して、其の思いを押し通すのが、男爵の気質である。かってアリントン街の屋敷で、甥永谷礼吉に勘当を言い渡した時なども、何度か挫(くじ)けようとする我が心を鬼にして、我慢に我慢を加え、終に勘当を言い渡し了(おわ)ったのだ。

 今も其の時と同じだ。既に園枝を不義者と思い定め、何(ど)うあっても、決して不義者の口先に、言い迷わされ無い様にしようと、決心しての事なので、辛くても絶対に動ぜず、今此の不義の妻が言う言葉を、信(まこと)と思い、露ほども勘弁する事があっては、泥を塗られた我が顔は、一層其の泥を厚くし、物笑いに又物笑いを重ねるとばかり思い、殆ど歯を噛み切(しめ)ない許(ばか)りにして、強情に落ち着いているのだ。

 園枝は男爵が動きも感じもしない様を見て、恨めしさは限り無く、今は殆ど前後の思慮も忘れた様に、一心に口を開き、
 「私は自分の身を汚した覚えは有りません。充分の言い開きが有りますのに、夫(それ)をも聞かず、唯だ一図に不義者と仰(おっしゃ)るのは、貴方にも似合わない非道です。

 如何ほどの罪人でも、一応の言い開きは許されますのに、ハイ、言い開きさえ立派に立てば、罪で無い者は許されますのに、貴方の妻は良人(おっと)に向い、言い開きさえ許されませんか。私は覚えの無い罪に無言(だま)って服す事は出来ません。

 ハイ、不義者では有りません。不義者で無い次第を詳しく言い、其の上で貴方が夫(それ)を偽りだと仰れば、夫(それ)までです。貴方にさえ信じられなければ、運の尽きた者と断念(あきらめ)ますが、何にも言わない先に、その言い開きを、悉(ことごと)く嘘と思われ、ハイ聞かずに不義者と見做(みな)される様な、其んな扱いは受け入れる事は出来ません。」

と言い放ち、是でも私に罪が有りますかと云わない許かりに、身を引き延ばして、良人の前に立つ有様は、実に二人とは世に無い程に、非常に清く、非常に気高い姿ではあるが、男爵が動じない事は、初めと同じ様で、却(かえ)って此の姿を見て、罪をも恥じず、更に我を欺(あざむ)こうとする不届き者と思い、益々欺かれない様に、用心をして、心の中で、
 「彼の倉濱小浪嬢の証言は何よりも強い。」
と呟き、小浪嬢が偽りを述べる筈は無いと呟(つぶや)くばかり。

 園枝は男爵が聞くか聞かないかは顧みる余裕が無く、言うだけは言わなければならないと決心したが、昨日遊山場で、皮林の口から良人(おっと)の大怪我を聞いた次第から、古塔に囚われと為り、一夜を苦しみ明かした次第、皮林が永谷を種にして、深く企計(たくら)んだ次第まで、男爵の顔を見詰めたまま語り出す其の言葉に澱みは無いけれど、悲しいことに、其の事柄が今の世には有りそうもないと、思わない訳には行かない程の、余りに意外な事なので、男爵は信じようにも信じる事が出来なかった。

 園枝は語りながらも、男爵の顔に一点の柔ぐ事が無いのを見て、深く深く絶望し、話が漸(ようや)く終る頃は、園枝自身の顔は、殆ど死人の色と為っていた。
 アア言い開きは終(つい)に終わった。男爵は何の返事も無い。言い開くだけ、言い開いて、まだ良人(おっと)に信じられなければ、此の上にどうする手段が有るだろうか。

 唯だ夫婦の縁が、ここに尽きたのを知るだけだ。園枝は今が今まで恩人として敬(うやま)い、良人として愛した男爵に、この様に見捨てられ果てたかと思うと、健気ではあるが流石は女、恨めしさ、腹立たしさは一種の悲しさとなり、胸も張り裂ける程に思われたが、泣いても仕方が無い。早や愛情の絶えた人に、此の上未練の泣き顔を見せては、罪の重さに耐え兼ねて泣く者だと、思われてしまうだけだ。

 何も彼も是までと断念(あきら)める外は無いと、真に悲しくも断念(あきら)めて、少しの間に自分の思いを定め、強いて悲しさを押し隠したが、それでも隠す事が出来ない悲しい声で、

 「もう是で貴方のお心も分りました。貴方と私との間は是までです。ハイ何も彼も是までです。思えば貴方が私の言い開きを、真実と思い成さらないのは、余りに邪険なお疑いとは云え、ご尤(もっと)もです。私を往来の石畳から拾い上げ、素性も身分も分らないままにお救い下され、爾(そう)して名も無ければ、身寄りも無い者を、妻とまでお定め下さったのが、身に余る私の仕合わせです。

 此の仕合わせが、長く続く筈は無く、少しの事で又愛想を尽かされ、元の石畳に帰るのは当り前です。今まで貴方の愛に甘え、譬(たと)え誰が私を非難しようとも、貴方には末の末まで私を信じ、外の非難を切り払って下さる方と、実は心で自慢するほどにも思って居ましたが、間違いでした。夫(それ)ほど深く愛せられる身分では無い事が、漸(ようや)く合点が参りました。

 もう何も言わ無い事にします。此の家の財産が欲しい為、厚顔(あつかま)しくも帰って来た様に思われて、此の家に居るのは、昨夜の古塔に居るよりも、もっと心苦しく思います。後とも言わず、たった今立ち去りますが、此の貴夫人の有り様で、再び乞食も出来ませんから、乞食に似合う破れ着物一枚は頂いて身に着けて立ち去ります。

 唯だ其の仕度の間、一時間の猶予を下されば、二度と再び貴方のお目に懸からないのは勿論の事、此の屋敷へ出入りする人の目にも掛りません。常磐男爵おさらば。」
と云い終わり、力無く無く戸口を指し、首を垂れて立ち去った。

 男爵は真に園枝の気質を知れば、心に無い事を口には云わないのを知り、全く是れ限りで、又呼び返す方法の無い事を知る事になるだろう。


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