巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune56

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.19

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                五十六

 実に男爵の心は皮林育堂の思った様に変わって来た。園枝を不義者と認め、自分の行ないを悔いると共に、親身の甥である永谷礼吉を勘当した事をも悔い、園枝に譲る事と決めた、其の財産を更に永谷礼吉に譲り、以って自分の過ちを正そうと思い定めるに至ったものだ。人心の反動は総てこの様な者なのだ。

 男爵は直ちに従者を呼び、永谷を之へ寄越せと命ずると、従者が畏(かしこ)まって退いてから、僅(わず)かに五分ばかりを経て、永谷は心配そうな非常に青い顔色で入って来た。彼の顔の青いのは、必ずしも自ら粧(よそお)った者では無い。

 彼れは悪人とは言え、皮林ほどの悪人では無い。唯だ善心の力が弱くて殆ど皮林の為に使われて居る様な有様なので、昨日以来の皮林の振る舞いを見、彼の力で男爵夫婦の仲が、唯だ一日にして仇敵の様に割け離れ、栄華に充(みち)ていた新夫人が、一夜の間に恥辱の底に沈んだ事を思うと、真に恐ろしさを禁じる事が出来ない。
 此の上に、皮林の陰謀は何の所に迄及ぶ事かと、殆ど生きた心地もしないのだ。

 親しく皮林に逢い、其の考えを聞けば、我が恐れの鎮まる事も有るだろうとは思うが、彼れは昨日園枝と共に立ち去ってからは、今以て帰って来ないばかりか、未来永々此の家へは足踏みの出来ない人と為った。此の儘(まま)で、彼が再び来る事が無ければ、茲(ここ)まで運んだ彼の企計(たくらみ)を、我が受け嗣(つ)いで取り纏(まと)めると云う事も出来ない。
 如何なる事に成り行くのだろうと、前後気に掛かる事ばかりなので、我と我が顔色を支える事が出来ないで居るのだ。

 今男爵に呼ばれても、アタフタと恐れながら入って来たところだ。
 男爵は先ず彼に席を与(あ)たえて、非常に厳かな口調で、
 「実は礼吉、己(おれ)は男爵常磐家の当主として、今済ませて置かなければ成らない役目が有る。随分辛い役目だけれど、何時まで延ばしても同じ事なので、成るたけ早くする積りだが、先年その方を勘当してから、今は殆ど二年になる。勿論充分考えてした事で、其の方の不身持ちに対し、止むを得ず言い渡した事なので、今でも俺は別に悪かったとは思っていない。
 一家の家名を重んずる為め、当然の処置だと思うけれど、その後其の方の行ないを見れば、世間から悪い噂も立てられず、好く辛抱して居るのは全く、魂を入れ替えた者と察せられる。」

 恐そる恐そる聞いて居た永谷も、少し風色の好いのに力を得て、
 「勿論魂を入れ替えました。先年の不身持ちは、今から見れば、何でアノ様な事をしたかと実に後悔に耐えません。」
 男爵は聞き流して、
 「殊に其の方の母が死際に、呉々も俺に其の方の後々を託した事と云い、親身の伯父甥では有り、勘当の儘(まま)捨てて仕舞う事は出来ない。全体云えば、もう少し早く其の方の勘当を、幾分か弛めて遣る所であったかも知れないが、唯だ不幸にして俺が!」
と云い、非常に言いにくそうに少しの間言い澱(よど)んだ末、

 「俺が妻を娶る事になり、其の方にまでは注意が届かなかった。所が其の妻の不都合から、俺は泌々(しみじみ)婚礼を後悔する事となり、愈々夫婦の縁を切って、元の独身に立ち返る事に成った。之に付いては妻が不都合をした其の相手は、その方の親友皮林育堂で、俺は此の後、彼に対し充分の復讐をし、名誉の満足を求めなければならない。

 夫(それ)は又夫(それ)として、全体彼を此の家に引き入れたのは其の方なので、其の方を恨まなければならない訳だが、併し、その様な事はしない。何もその方は悪意が有って彼を引き入れた訳では無し!」
 永「勿論です。何で私に悪意が有ましょう。」
 男「イヤ、無言(だまっ)て先ず仕舞いまで聞け。俺が婚礼の後に作った遺言を以って、妻に此の家の財産を譲る様に定めて有る事は其の方も知って居るだろう。今は妻が去ったため、その代わりとして其方の名を書き入れ、勘当以前の通り、再び其の方を此の家の相続人に直して遣る。」

 アア勘当が解け、愈々此の家の相続人に立ち直されるか。長々の言い聞かしの末、漸く達した此の断案は、実に永谷礼吉を、天にも上す程の、有り難い思し召しなので、永谷は三拝して、
 「実に伯父さん、此のお計らいは、何とお礼の申し様が有りません。」

 男爵は少しも其の顔を頽(くず)さず、猶も厳かに、
 「イヤ、俺は礼など云われる可き時では無い。此の計らいは俺の非常な不幸から出て来たのだ。」
 永谷は唯だ恐れ入り、
 「御最もです。」
と聞こえないほど細く云っただけ。

 男爵は是で、成るたけ早く夫々の手順を運び、遺言書を書き改める旨を告げ、永谷に引退(ひきさが)るよう命じたので、永谷は恭々しく此の部屋から立ち去ったけれど、思えば嬉しさより又恐ろしさの方が勝る者がある。我は此の大財産を得るとは云え、正当にでは無く、皮林の恐る可き陰謀によって得た者だ。この様な手段で人を欺き、人を苦しめ、又人を陥(おとしい)れて得た者が、真に後々、我が心を安んじ、我が幸いを増すに足るだろうか。

 是よりもっと気に掛かる事は、彼れ皮林育堂の働き振りである。一年や二年では行うことは出来ないだろうと思っていた事を、一月にも足らないうちに、云わば唯だ一日で成し遂げたのだ。彼は如何なる魔力を持って居るのだろう。人に化けた魔人とは、彼の様な者なのに違いない。

 彼れは此の後は、生涯我が身に付き纏(まと)う親友だろうが、我が身は何時までも、彼の手から脱し得ない事にも成るのではないかと、胸に穏やかでない思いが満ち満ちて来て、自ら払う事が出来なかったので、縁側に出て庭の景色などを眺めて見ると、目の届く限り、果てが無い風景は、今からは総て我が領地である。

 伯父男爵の死すると共に、此の領地総ては我が物であると、この様に思うと、何時しか又皮林の事も陰謀も総て忘れ、浮々と浮かれ出て、庭の隅々を漫歩しながら、終に裏門の方に出ると、茲(ここ)に佇(たたず)む一人の年老いた、旅商人があった。

 此の土地に来た旅商人は、総て男爵家の下女、下男等を華客(とくい)とする者なので、永谷は此の旅商人もきっと其の類の一人で、召使が茲(ここ)に出て来るのを待っているのだろうと、何心なく其の傍を通り過ぎようとすると、旅商人は不躾(ぶしつけ)にも永谷に打ち向い、

 「イヤ、永谷礼吉様、常磐家の新御主人と成られたお歓びを謹んで申し上げます。」
と云った。永谷は此の語よりも此の声を聞き、呆気に取られて跳ね返った。
 是れは実に聞き間違えるはずも無い、彼皮林育堂の声であったからだ。


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