巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune58

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.21

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                五十八

 実は皮林育堂の云う通りである。遺言状に相続人の名を書き込まれても、男爵が若し八十歳まで生き延びれば、永谷は今から三十余年後、己(おのれ)の年既に六十にも達した頃でなければ、この財産を自由にする事は出来ない。血気盛りの永谷に取っては、齢六十は人生の末の末かとも思われる程なので、永谷はこの言葉を聞き、相続の有難さも、忽(たちま)ち薄らいで来る心地がし、何となく心細い。彼れは殆(ほとん)ど腹立たしい語調で、

 「君は何だって其の様な事を言う。僕が折角相続人の位置に復し、目出度いと思う矢先へ、君の言葉は其の歓びを掻き消すのだ。この相続権は誰よりも君が良く知って居る通り、非常な犯ーーー。」
罪と云おうとしたが、言い直して、
 「非常な苦心を以って得たものでは無いか。君の言葉を聞くと、この苦心して得た相続権が、何の値打ちも無い様に聞こえるが。」

 皮「爾(そう)サ、先ず君の伯父が死ぬまでは、大した値打ちは出て来ないのサ。僕は唯だ物の道理を説く丈だ。君は先年、伯父に勘当されてから今まで、二年の辛抱さえ、僕の忠告でヤッと仕果(しおう)せた位じゃ無いか。今から三十年の辛抱は随分永いぜ。先ず君の頭へ白髪が生えて、社交界へ出た所で、人から老人として敬して遠ざけられ、旨(うま)い物が有った所で、胃が衰えて、食う気が起こらず、財産が手に入ったが、面白く遣(つか)う道は無いサ。そう云う時代に成ってから、財産が手に入るのだ。其の時節には幾千万の財産も、少しも快楽の種には成らず、唯だ管理するのが面倒な許(ばか)りで、少し目を放せば、人に誤魔化される恐れが有り、一刻も気の休まる暇は無く、悪くすると、君の後を取る人達から、この爺(じい)さん早く死ねば好いなどと祈られる事にも成る。」

と言葉巧みに老い先の面白く無い事を説き明かすのは、今の中に早く男爵を殺そうとの意である事は益々以って明らかなれど、彼悪人の本性として、自分から悪事を言い出し、人に我が弱点を握られるのを好まず、人から言い出させて、その人の弱点を、我が手に握って置こうと思うのだ。しかしながら、永谷は、真逆(まさか)に我が伯父を殺そうと云う程の、大胆不敵な悪人では無い。未だ皮林の深意を知る事が出来無い。唯僅かに、

 「何も僕が六十まで相続が出来無いと極まっては居ない。老少不定の世の中だから、何時伯父が死ぬかも分らない。」
 皮林はこの返事に、到底明らさまに伯父殺しの相談は出来ないと見て取り、自分は自分だけで、唯一人の考えで、取り行う所があると決心した様に、全く言葉の調子を変え、

 「夫(それ)は爾(そう)だ。何時君の伯父が死ぬかも知れない。イヤ実は遠からず死ぬだらう。新夫人を失った絶望は、日を経る毎に益々深く其の心を責めるから、案外早く死ぬかも知れない。爾(そう)サ、愈々遺言を書き直して、君の名を相続人に書き入れた其の夜の中にでも、男爵が頓死すれば、君はこの上無い仕合わせ者だ。」

 永谷はまだ腹立たしく、
 「その様な事を云って呉れるな。僕が悪人だと云っても、真逆(まさか)に、伯父の死ぬのを願う程の悪人では無いからよ。」
 皮林は嘲(あざけ)る様に、
 「爾(そう)サ、罪の無い新夫人に罪を被(き)せ、伯父が四苦八苦の苦しみをして、其の為に遺言書を書き換える事に成ったのを、この上も無く喜ぶ程の君だから、君は実に伯父に孝行だよ。伯父が八十までも九十までも生きて、君が六、七十にまで成れば、君は本当に喜ぶだろう。」

 永「もう云って呉れるな。君の言葉は、聞いて居るほど恐ろしくなる。君は本当に人間の皮を被(かぶ)った魔物だよ。」
 皮林は益々落ち着き、
 「ではもう云わない。けれども唯一つ念を推す事が有る。外でも無い、君は僕に報酬として二通の約束手形を渡してある事を忘れては居ないだろうね。其の一通は二年間に支払う約束だが、一通は一年の中に払うと云う期限だよ。一年のうちに、伯父が死ななければ、君は何うして此の手形を、正金と引き換えるか。」

 永「夫は引き換えずに置く丈サ、君は其の手形を受け取る時から、伯父が死ななければ、僕には其の払いが出来ないと云う事を承知じゃ無いか。」
 皮「イヤ、爾(そう)では無い。僕は多分君の伯父が一年の中に死ぬ者と思い、一年と経たないうちに、君が必ず手形を正金と引き替える事が出来る位置に立つだろうと思った。」

 永「夫(それ)は無理だよ。君は僕の伯父を殺す積りか。エ、君、其の積りででも無ければ、一年の中に、僕が其の位置に立つと云う見込みは、附かないじゃ無いか。本当に君の言葉は益々恐ろしい。僕はその様な大悪事は嫌いだよ。当分君は僕の傍に近付かない様に仕給え。僕をこの家の相続人に取り直すと云う、君の仕事は既に仕上がった者だから、伯父が天然に病死するまで、君と僕の間に何も用事は無い。」

 皮林は冷然と、
 「オヤ、愈々相続人に成ったと思い、急に強く成ったネ。僕を跳ね退ける気か。エ、君は跳ね退けるなら跳ね退け給え。僕は恐れながらと、君の伯父の前へ出て、今まで二人で言い合せてした仕事を、悉(ことごと)く打ち明け、少しも新夫人に罪の無い事を証明するから。」

 永谷はこの一語に恐怖(おそ)れ、
 「その様な事を云って呉れるな。ナニ君を刎(は)ね退けはしない。唯僕は相続人の権利を得た丈で沢山だから、この上に悪い事をする気は無く、八十でも九十でも、伯父の生きるに任せて置き、気永く待つ外は無いと云うのだ。」
 永谷の決心は全く茲(ここ)に在る。容易には動かし難いのを知ったので、皮林は独り頷(うなず)き、

 「夫(それ)ならその積りで、僕は自分の思う通り運動しよう。ソレそう云ううちに、彼所(あちら)へ下女の姿が見える。僕は飽くまで旅商人の積もりで台所へ忍び入り、今夜はこの家で明かすから、君も認められない中に、立ち去りたまえ。」

 云う中に、下女の姿は愈々近づいて来たので、二人は左右へ分れたが、この様子から察すれば、男爵家に降り下る禍は、未だ是だけでは止まらないと見える。


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