巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune61

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.24

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 六十一

 皮林が窓の外に忍び出るや否や、引き違いに家扶(かふ)
と従者を連れ、此の部屋へ帰って来た常磐男爵は、今まで皮林が茲(ここ)に居て、遺言の全文を読み去ったなどとは、思い寄る筈もなく、言葉短かに家扶と従者に、遺言を書き改めたことを告げ、夫(それ)に就いては、両人も立会人として新遺言書の終りに、銘々其の名を記す可(べ)しと命じると、両人は畏(かしこ)まって、各々筆を取り、名を認(しる)し終わった。男爵は吸い取り紙で其の濡れた墨を拭いながら、両人に向い、

 「この様に遺言書を書き改めた事に就いては、中の事柄を其の方達にも知らせて置こう。今までは夫人園枝を相続人として置いたが、此の新遺言書では又甥の永谷礼吉を相続人に復(もど)してやった。明日から永谷を此の家の後取として尊敬し、更に召使一同にも、心得違いの無い様に言い聞かせて置け。」

 両人は、
 「唯々《はい、分りました》」
と畏(かしこ)まって退いたが、後に男爵は更に其の遺言書を巻きも収めず、又も幾度か読み返して考えて見て、今までは唯腹立しい一方で、傍目(わきめ)も振らず、この様には運んでみたものの、運び終わって、彼れ是れ思い廻わすと、まだ心に穏やかで無い所がある。今宵の我が所業は、後で再び悔い恨む事は無いだろうか。一旦勘当す可(べ)き理由があって勘当した我が甥を、再び相続人に引き直すのは、不相当の所為ではないかなど、留度(とめど)無く考えて、終に決定的な確信が持てなかった。

 「イヤ先(ま)ア今夜は是で置こう。斯(こ)うして置いて、他日心の落ち着いた時、緩々(ゆるゆる)と考え直せば、其の時に又何とでも改められる。」
と呟(つぶや)いて、漸(ようや)く其の心を落ち着けた。
 此の時まで、まだ窓の外に控えて居た皮林は、最早や男爵が遺言書に立会人の記名まで済ませた事を見、是で先ず目的の一段は達したと云うもの。非常手段実行は、夜の更けるまで延ばすとして、此の上茲(ここ)に長居するのは危険の元、ドレ後ほどまで勝手へ廻り、待って居ようかと、其の儘(まま)ここを立ち去って、下男下女の寄り集う当家の台所へと廻ったが、

 下女下男一同は、此の旅商人の品物は、今まで来た幾多の商人より、価(あたい)が安いだけでなく、更に後々の愛顧を得る為と称し、数多の景品まで添えてある為、此の旅商人を喜ぶことは並大抵でなかった。
 夜の十時頃までに、彼の荷物の大半を買い尽くしてしまった。

 其の中に一同が寝に就く刻限となったので、彼旅商人は立ち上がって女中の一人に向い、
 「未だ裏の戸は開いて居ましょうネ、此の頃は世の中が物騒だから、私の立ち去り次第、厳重に戸締りをしなければ了(いけ)ませんよ。」
 尤(もっと)もらしい言葉を残し、裏門の方を指して去ると見せ掛け、其の実裏門に到らずに、再び男爵の居間の窓に行き、中の様子を覗いて見ると、男爵が先ほどから今までの間に、何をしていたのかは知る由も無かったが、彼の書き改めた遺言書も、其の他の書類もそれぞれ収め終わったと見え、卓子(テーブル)の上も片附いていたが、男爵の姿は以前の儘(まま)であった。

 依然として灯火の下に卓子(テーブル)に向い、前に延展(のべひら)いて熟々(つくづく)と眺めつつ有る一通は、遺言書では無い。古い書類では無い。先程夫人が此の家から立ち去る時、男爵に宛てて書き残した、一通の手紙である。男爵は読み終わっては又読み返し、無言で其の文句を味わうに従い、非常に心を動かされ無い訳には行かなかった。

 文句は実に罪深い女が、殊更憐れそうに書いたものでは無く、何も彼も是までと悟り尽くし、身の不運と諦めて、一切の望みを断った貞女の手紙である。泣きもせず訴えもしない所に、却(かえ)って悲しく打ち萎(しお)れた様子さえ思い遣られる。其の文には、

 「今となって思い当ります。私が貴方様と婚礼したのは、身の程を越えたもので、この様な不釣合いの縁が永く結ばれる筈はありません。私を名も無く身分も無い、乞食同様の有様から御救い下され、貴族の妻とまで御取立て下されました事は、有難過ぎた思し召しで、此の御恩に対し、私から貴方様に酬(むく)いる事は一つも無く、過ぎた身の上の恥、身の上の汚れ、並びに素性など、総て不釣合いの事ばかりで、一度(ひとたび)少しの行き違いから、深く深く疑われて、言い開きさえお聞き取り下さらないまでに、賤(いや)しめられました事も、全く私の不運に御座いました。

 過ぎた事は申しても仕方が無く、私は再び貴方様のご気色を損じない様、人知れず世を送りますので、かって園枝と云う女が、此の家に居たと云う事さえ御忘れの上、此の後を幸福に御送り下さって頂ければ、私の切(せめ)てもの心休めとなるでしょう。此の上は後々までも、貴方様の御立腹が私の身に掛りますようでは、私も甚(はなは)だ心苦しく思う所です。私の此の後の暮らし方は、聊(いささ)かもご心配下さるには及びません。

 貴方様のお蔭で、充分相受けることが出来ました音楽の教育は、身を助ける芸と相成り、何れに行くとも、糊口の道に差し支えは有りません。唯心残りは不義者の名を負い、貴方様の御疑いを解くことが出来ずに、立ち去る一条に御座いますが、是も晴れる時には、自ずから晴れる事だと、我が身に覚えの無い頼みとして、更に私の不義でない充分な證(あかし)は、貴方様の老友、病中にある小部石(コブストン)大佐へ申して置きました。

 明日は大佐から貴方様の御耳に入るかと存じます。大佐から唯一言お聞き取りの上、不義者では無い事だけは御合点頂ければ、私は人知らない所から出て、人知らない所に帰るのも、少しも恨みは有りません。誰一人、人の知らない所から、蔭ながら貴方様の幸福を祈るばかりで御座います。」
と有る。

 男爵は読むに従い、益々心が動いて来て、唯一言で不義者でない證(あかし)を小部石大佐に言い残して有りとは、如何なる証明だろうなどと、益々思い惑ったが、
 「イヤイヤ、斯(こ)う云う手紙を書くのが、偽りの旨(うま)い所だ。泣いたり訴えたりする様な、一通りの手管ある女では、己(おれ)を今まで欺く事は出来ない訳だ。悪女め、手管の上の手管を以って、未だ己(おれ)に後悔させようと、殊更らこの様な清げな手紙を書いたのだ。斯(こ)うして立ち去ると見せて、まだ此の近辺に忍んで居て、己(おれ)が此の手紙に動かされて、迎えに行くのを待って居るかも知れない。誰が此の上に欺かれるものか。」

と云い、其の儘(まま)手紙を畳たんだが、昨夜から数十時間に引き続いた心配に、流石男爵も疲れて、根が尽きたものか、頓(やが)て其の卓子(テーブル)に俯(うつむ)き、そのまま他愛も無く眠り始めた。
 窓の外に居た彼れ皮林育堂は、凡そ三十分間が程も男爵の寝息を伺い、

 「最(も)う大丈夫だ。今夜殺して仕舞わなければ、又何の様に気が変わって、再び遺言を書替える事になるかも知れない。」
と打ち呟(つぶや)き、以前の様に窓の中に忍び入り、抜き足で、眠っている男爵の背後に廻った。アア彼れ愈々(いよいよ)大目的を達する時が来た事を喜ぶ様に、背(うしろ)から男爵の姿を見て、ニヤリと満足の笑みを洩らす。

 是鬼、是魔、心ある人間とは思われない。


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