巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune62

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.25

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 六十二

 皮林が非常に満足気に打ち微笑む物凄い顔の下で、常磐男爵は、何の様な夢を見つつあるのだろう。
 唯だ呼吸の調子が、上がったり下がったりしながら、易々と眠るだけだった。
 皮林は如何にして男爵を殺すのだろう。片手を己(おのれ)の衣嚢(かくし)に入れ、衣嚢の中で、何物をか握り持って、敢えて出さない。

 其の儘(まま)四辺(あたり)を見廻すと、男爵が伏せている卓子(テーブル)の傍に、一個の小棚がある。其の上に二個の硝子製の瓶が載せてある。一瓶は男爵が常に嗜(たしな)んでいる銘酒を盛り、今一瓶は清き冷水を盛ってある。
 皮林は口の中で、

 「フム、今日の様に色々心を動かし、神経を刺激した夜は、愈々寝床へ移る前に、寝酒として、此の銘酒を呑んで行くに違いない。」
と云い、更に暫(しばら)くあちこちに目を配って、男爵が伏せている卓子(テーブル)の隅に、何物か白い布布(ぬのきれ)で蔽(おお)った、一品の在るのを見る。皮林は密(ひそか)に其の衣布(きれ)を取り退けて、其の蔽(おお)われた一品を見て。
 「ウム是だ、是だ。」
と打ち呟(つぶや)く。

 抑(そ)も此の品を何とするか。酒を呑むために備えてある、深い硝盃(コップ)である。きっと寝る際の用意にと、男爵が取り寄せて置いた者に違いない。皮林は之を見て、今まで衣嚢(かくし)に納めて居た、己の片手を引き出すと、其の手の先には、一個の小さい薬瓶を握っていた。是れこそ彼が、日頃数回の試験によって作り上げた、毒薬であることは疑う迄も無い。

 彼は其の口を抜き、静かに件(くだん)の硝盃(コップ)の中に五、六滴垂らし込んだものは、水よりももっと澄んでいて、有るか無いか分らない様な、露の玉である。こうして彼れは、其の硝盃(コップ)を元の様に、布巾(ぬのきれ)の下に蔽(おお)い隠し、

 「フム、斯(こ)うして置けば、暁方(あけがた)までに死んで仕舞う。己(おれ)が斯(こ)うして、毒薬を垂らしたとは、神でも気の附く事では無い。唯だ永谷礼吉だけは、或いは疑うかも知れないが、彼れは己(おれ)と同罪の様な者。幾度疑ったとしても安心だ。

 外の人は唯だ男爵が余り夫人園枝の事で心を痛め、心臓破裂で頓死したと、是くらいに思うだろう。さう思はせるには今夜が最も好機会サ。余り日が経って死ぬと、爾(そう)は思わない。旨(うま)い、旨い。唯だ一口に呑み乾せば、其のまま死んで仕舞うし、少し呑んでグヅグヅして居れば、死に切れずに多少は苦しむかも知れないが、それにしても助かりっこは無い。日の出るまで保(も)ちはしない。」

と呟く中に、彼の身はそろそろと早や窓際に近づいて、何の物音も立てずに、元来た様に、其の儘(まま)窓を潜(くぐ)り抜け、何人にも認められずに、庭の塀をさえ乗り越えることが出来たのは、彼の悪運が、未だ強い所と云うべきだろうか。

 この様にして、彼は悠々と立ち去りながら、町尽(まちはず)れにある、酒店も兼ねている宿屋を叩き起し、矢張り旅商人の姿の儘(まま)で、一夜の宿を求めたが、是からの彼の活動の様子如何(いかん)は、暫(しばら)く後に譲る。

 話は替わって、常磐男爵は彼、皮林が立ち去ってから、凡そ半時も過ぎた後、恐ろしい夢にでも襲はれた様に、突然驚き目覚め、非常に怪しそうに、身辺(みのまわり)を眺め廻して、
 「オオ夢で有ったか。先(ま)ア好かった。」
と云い、額の冷汗を押し拭って、

 「アア本当に殺されたかと思った。アノ園枝めが此の窓から忍び込み、匕首を持って己(おれ)の背(うしろ)に立ち、背(せな)から心臓まで、一突きに己(おれ)を刺し通した様に思った。仕合わせ、仕合わせ。併しナニ幾等妖婦でも真逆(まさか)に己(おれ)を殺す程の度胸は無いだろう。とは云え何とも図り知れない。己(おれ)に追い出されて、死に物狂いになれば、何の様な事をするかも知れない。夢が抑(かえ)って知らせたのかも知れない。

 爾(そう)だ、結局この様な夢を見るのも、先程己(おれ)がアノ園枝を疑いながら眠った所為(せい)だ。園枝め、己(おれ)が未だ遺言を書き直さないうちに、己を殺せば、此の財産が自分の物となり、所天(おっと)が無ければ、自由に情夫を引き入れる事も出来ると、この様な悪い了見から、今夜此の屋敷の何処かに隠れて居て、己を刺しに来るかも知れないと、先程もこの様に疑いながら微睡(まどろむ)んだ。夫だから夢を見たのだ。

 オオ未だ何だか胸騒ぎがする。夢が誠になるかも知れない。この様な時には、用心が肝腎だ。ドレ、斯(こ)う云う中にも、窓の外にでも、潜んでは居はしないか。」
と日頃心の健全な人にも似ず、非常に神経を動かして、将(まさ)に立って、窓の方に検(あらた)めに行こうとする折りしも、入り口の戸の外に足音があった。引き続いて砕ける程に戸を叩き、

 「又来たよ、コレ老友。未だムシャクシャと考えて居て、寝はすまい。茲(ここ)を明けぬか。」
と呼び立てるのは、確かに小部石大佐である。

 先程見た園枝の手紙に、唯一言で自分が不義者では無い事が分る充分の證明(あかり)を、小部石大佐に言残して有る様に記してあった。大佐が来たのは、夫(そ)の為で、夜の明けるまで待ち兼ねた者に相違無い。先には大佐の言葉で、心の重荷の弛むのを覚え、持つ可(べ)き者は老友なりと喜んだ男爵も、今は大佐に顔を合わせるのが、何となく煙たく思ったが、拒んでも拒むことが出来ないことを知っているので、仕方なく、窓の方に行こうとした足を返して、入り口に行き、内よりその戸を引き開くと、大佐は会釈も無く歩み入りながら、

 「老友、己(おれ)はもう、お前の馬鹿さ加減には、呆れて仕舞った。何だって罪も何も無い貞女を追い出した。エ、老友、お前は未だ老耄(もうろく)する年でも無いが。」
と頭紛(あたまごなし)に叱りながら、卓子(テーブル)の横に有る空き椅子にドカッと腰を卸(おろ)し、真に呆れた様に、男爵の顔を見詰めるばかり。男爵は充分な返事も出来ず、唯僅かに、

 「ナニ、自分に不義の覚えが有るから、自分から出て行ったのだ。己(おれ)が追い出した訳でも無い。」
 「オッと云うな、云うな、出て行かなければ成らない様に、お前が仕向けたから出て行ったのだ。立ち去る前に園枝夫人は、己(おれ)の病室へ立ち寄って、己に細々と云い残して行った。己は唯一言でお前の疑いを解き、園枝夫人の清い心を証明するのに充分な證明を得たから、それをお前に聞かせに来た。一層の事、お前と決闘しやうかと思ったけれど、真逆(まさか)に、確かな證明が耳に入らないほどの、お前でもあるまい。」

  不義と極まった彼の園枝に、その様な証明の立つ筈は無いと、男爵は思い込んでは居るが、まだ何となく心に穏やかでない所がある。何事を云うのだろうと、且つ怪しみ且つ気遣い、
 「一言に證明するとは。」

 大佐は武者震いに身を震わせ、
 「待て、待て、嫌な薬を呑んで来たから、変に咽喉が乾く。先ず水を一杯呑んだ上で言って聞かせる。」
と云い、彼の皮林育堂が毒薬を垂らして行った、恐るべき硝盃(コップ)を取り、何の遠慮も思案も無く、小棚から冷水の瓶を取って、大佐は手ずから波々と其の水を、其の硝盃(コップ)に注(そそぎ)入れた。

 アア誰か大佐の手を取り留める人は無いか。悲しい哉、其の人が有ろうとも思われない。


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