巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune63

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.26

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 六十三

 男爵を殺すために盛って置いた彼の毒薬、却(かえ)って小部石(コブストン)大佐を殺す事になっては、助かる男爵は仕合せであるが、死する小部石大佐の不幸はどれ程か分らない。とりわけ大佐は男爵の唯一人の親友にして、男爵に意見を加える者は、広い世界に此の人の外には無く、其の上に園枝夫人に取っては又と得難い弁護人である。

 園枝が不義者でない身の證明は、唯大佐一人に繋(つな)がるばかり。此の人が若し死んだなら、園枝は誰によって男爵の疑いを解き、何によって其の身の冤罪を雪(そそ)いだら好いのだろう。実に園枝の為には、小部石大佐の死ぬことは、常磐男爵が死ぬにも劣らない不幸である。天がこの大佐を殺す事は、園枝を殺すことである。アア何うして園枝にばかり、辛いことが降り下るのだろう。

 大佐は男爵の卓子(テーブル)の上に、毒薬が有ろうとは、知る筈も無ければ、茲(ここ)に至って何の用心もせず、男爵も又此の水と此の硝盃(コップ)に毒薬が宿っていようとは、知る筈も無いので、大佐を留めようともせず、頓(やが)て大佐は其の硝盃(コップ)を取り上げ、一息に其の水の半分ほどを飲み尽くし、

 「アア旨い」
と咽喉を鳴らし、更に残る半分を又一口飲み掛けたが、忽ちにして眉を顰(しか)め、
 「此の水には毒が有る、毒が、毒が。」
と叫んだ。
 男爵は驚いて、
 「何だと、此の水に毒が。」
と怪しみ問う間に、早や毒は大佐の腹の底に廻り、頑丈な大佐の骨身を砕き始めたと覚しく、大佐は空を掴(つか)んで苦痛に悶えながら、

 「老友、解毒剤を、早く、早く、己(おれ)が印度遠征の時、土産に贈った解毒剤が、未だ其の儘(まま)で有る筈だ。」
と罵(ののし)る様に云う声も、殆ど四苦八苦の苦しみである。
 男爵は唯だアタフタと狼狽(うろた)え廻って、呼び鈴を早鐘の様に振り鳴らすばかりで、どうする事も出来ない。

 大佐は早や咽喉も塞(ふさ)がってしまったか、罵(ののし)る声は絶え絶えとなり、殆ど聞き取れない程と成ったが、最後の苦しみに、又最後の声を発し、
 「コレ、老友、此の毒薬は、園枝夫人に不義の名を着せた、お前の敵が、お前を殺す積もりで此の水へ入れて置いたのだ。夫(それ)を知らずに己(おれ)が飲んだ。己がお前の身代わりに殺されるのだ。」

 是まで叫んだが、声は之で全く絶えてしまった。男爵は周章(あわて)惑(まど)う中にも、此の恐ろしい言葉には、愕然として打ち驚き、さては我が身を狙う者が、我を殺す所存で、毒を我が飲むはずの水の中に入れて置いたのか。夢は全く事実となった。園枝の外に、この様な事を企計(たくら)む者は、誰が居るだろう。己(おの)れ園枝め、園枝め、己(おれ)が遺言状を書き直さないうちに、早く殺そうと思って。」

と云い、益々呼び鈴を厳しく振ると、寝入り鼻(ばな)だったので、最初の鈴には答えなかった家内の者も、今は驚き覚めたと見え、四方に遽(あわただ)しい足音があった。何れも此の部屋を指して、馳せ集まろうとしているようだった。しかしながら、事総て遅播(おそま)きであった。

 大佐は最後の言葉のため、僅かに繋(つな)がる一命を絞り切ったものと見え、椅子から撞(どう)と転げ落ち、歯をガツガツと噛み鳴らして、泡を吹くばかり。其の腹立たしそうに見張った目は、早や活きた光を失い、又動くことがあろうとも思はれない。毒は全く其の作用を顕(あらわ)し了(おわ)った。

 話は代わって、皮林育堂は、村尽(むらはず)れにある、酒店を兼ねた、矮狭(いぶせ)き《むさ苦しい》宿に泊まったけれども、毒薬の効き目は如何(どう)だったろうと気遣って、落々と眠りもせず、翌朝は早く起き、様子を見届けに、又も常磐荘園に行こうとして、顔に絵科(えのぐ)を塗り直すなど、窃(ひそ)かに仕度を急ぐ所へ、軽く戸を叩いて入って来た一人があった。

 彼皮林は悪人の常として、不意に我が部屋へ、他人が入り込み来るのを好まず、腹立たしそうに振り向き見ると、宵に見た此の家の主人で、年は四十五、六にも成るだろうか、顔に正直な田舎の人とは受け取り兼ねる所がある。皮林は何となく無気味に思って、

 「お前は何で断りも無く此の部屋へ入って来る。」
 主人は様子有りそうに打ち笑って、
 「などと咎める口振りは、少しの品物を担ぎ廻る、細い稼ぎの旅商人と見えませぬぞ。」
 皮林はドキリとしたが、直ぐに落ち着き済まし、
 「朝早くから何の用事で。」
とやや和(やわ)かに言い直した。

 「用事は別に有りませんが、今朝は常磐家の下僕たちが、早くから此の前を通るから、何事かと聞いてみると、常磐男爵が昨夜の中に死んだと云います。だから貴方に知らせに来ました。」
と云ううちにも、口の端に気味悪い笑みを絶やさない。
 皮林は待ち設けていた事とは云え、又嬉しさに驚かないで居る事は出来なかった。しかしながら、嬉しさも少しの間で、又平気の顔となり、

 「常磐男爵が死んだからと言って、お前が故々(わざわざ)己(おれ)に知らせて来る訳は無いが。」
 亭主は益々落ち着いて、
 「イヤ知らせる訳が有りますよ。まあ貴方は顔を好くお洗いなさい。顔の絵の具を洗ひ落とせば、下から其の訳が出て来ます。」
と云う。
 流石の皮林も之には殆ど返事に困った。


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