巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune7

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.10.31

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                   七

 船長立田の死骸を見て、横山は唯、アッと打ち驚き、思わず背後(うしろ)に飛び退いて、しばらくは全く知覚を失い、宛(あたか)も釘付けにされた人の様に、立ちすくむだけだったが、漸(ようや)く我に復(かえ)ると共に、正直なその心に悲しさが満々(みちみ)ちて来て、溢れる様に、忽ち前に転がって其の死骸に縋(すが)り附き、四辺(あたり)をも気にせず声を放って、

 「エエ、船長、何うして先(ま)アこの横山の来るのを待たずに死にました、アア分かった、何者にか殺されのだ。殺されたのだ。船長、七年前に米国の貧民病院で死ぬばかりに悩んでいるのを救われたこの横山長作は、船長の外に頼りとする人も無く、貴方を命の親と思い、貴方の為には死ぬのも厭(いと)わない心で、アノ第一立田丸を預かって、一日も早く貴方に楽をさせ、貴方の恩に報い度いと、浪風を侵して働いて居ましたのに、その私の知らない間に、エ、貴方は何で死にました。何で殺されました。

 此の横山がお傍にさえ附いて居れば、決してこの様な事は無いのに、アアそう思うと、私が殺したのも同然です。約束通り私が帰って来れば、この様な事は無かったろうに、唯少しの荷物に目がくれ、一銭でも、半銭でも運賃を余計に残し、貴方に褒められたいばかりで、一所寄り道したのがこの様な事と為りました。

 船長、誰が貴方を殺したか知りませんが、この仇は必ず私が復(かえ)します。是から後の私の生涯は火の中、水の中でも、唯貴方の敵を探し出すばかりの為に費やします。船長、この敵を討った時には、何うぞ地の底から私の不行き届きを許して下さい。この敵を討たないうちは、私は貴方の恨みが消えずに、身の辺りに附き纏(まと)って居る者と少しも心を休めません。ハイ、必ずこの仇は返します。」

と生きた人に向う様に泣きながら、掻(か)き口説く様は、良人(おっと)を失った妻でも、これ程までは悲しまないだろうと思われるので、警官も余りの気の毒さに、少し遠慮して待って居たが、殆ど横山の嘆きに限りが無いので、頓(やが)て寄って来て、横山を引き起し、先ずその身分から尋ねると、彼は何の身よりも無い英国の人にして、職を求めて米国に迷い行き、職を得ないうちに病を得、たった今、自ら言った様に、唯死ぬばかりの身となって、貧民病院に臥(ふ)して居たところを、情けある立田に救い上げられ、深く其の親切を得て、終に船長心得にまで取り立てられた身の上であった。

 是からこの横山の言葉に拠り、死骸の本人である立田の身の上も能(よ)く分かり、立田には叔父として小部石(コブストン)大佐と云う、堂々とした紳士の有る事まで分かったので、警察署は直ちにその小部石大佐にも照会し、更にこの日の中に、夫々(それぞれ)の役人立会いの上、船長立田の死骸に対し、規定の通り、検視を行ったが、検死の役人は立田を唯の溺死人とは認めなかった。

 頭部、その他にただならない打ち傷が有り、何人にか叩き殺され、其の上で、堀の中に投げ込まれた者であることが判然としたので、その原因は何が為で、又凶行者は誰であるかや、更にその凶行の場所は何処なのかなど、及ぶ丈の調査を加えたが、是等の事には手掛かりを得ることが出来なかった。

 更に船長の持ち物などを調べたが、横山長作の言い立てに由れば、正金又は紙幣手形の類で巨万の金を懐中に納めて居た筈なのに、実際一銭も残って居ないところを見れば、強欲非道の輩の為めに、物取りの目的で殺された事に間違い無い。依って検視の役人は、
 「何者とも分から無い一人又は数人の為に殺された者。」
と判決してその死骸は小部石大佐と横山とに引渡した。

 是から幾日か経って、盛んな葬式を営み終り、その後で船長立田の所有になる第一、第二立田丸の処分を議し、小部石大佐は頻(しき)りに横山に勧め、立田の後を引き受けて航海の業を営む可(べ)きを説いたが、横山は船長が既に死んでしまっては、誰の為に再び働けと云うのですと云い、固く辞退して受けなかったので、終にその二艘を売り払い、其の代金を大佐と横山の名前で、或る慈善事業に寄付したのは、是より余程後の事である。

 それにしても、横山がこの様に大佐の勧めを拒み、利益の多い航海の業を止めたのは、非常に理解に苦しむことだが、彼の心は唯船長の死骸に誓った様に、その生涯を復讐の為に費やし、悪人を探し出して、船長の恨みを報いようと決心したのだ。海に浮かんでいて、如何(どう)してこの目的を達する事ができるだろう。

 彼は今は金銭にも事業にも望みは無い。立田丸の売却後、彼は全く世の中から消失した様に、深く何処かに身を潜め、宛(あたか)も彼の先夜失跡した少女園枝と同じく、音も沙汰も無い人となってしまった。

 これがこの話の発端である。是から進んで、更に話の本領に入るものと思って貰いたい。


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