巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune70

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 七十

 男爵に叱られて従者西井は言い訳の様に、
 「イヤ、夫(それ)は好く存じて居ります。唯今の場合、中々初対面の客は取次ぎは致しませんが、何と言っても聞かんのです。初め小部石大佐に会いたいと云いますから、大佐は病気で誰にも逢う事は出来ないと言い聞かせますと、此の人顔色を変えて驚き、大佐の病気、夫(それ)は何より心配だ、何うか其の病床へ通して呉れと、殆ど狂気にの様に騒ぐのです。何と言っても病床へは通されないと申しますと、夫では主人常磐男爵に逢わせて呉れ、男爵にに逢って一言話せば必ず男爵が安心して、大佐の病床へも通す事に成るからと言い張り、中々私の言葉を聞きませんから、夫で仕方が無く取り次ぎを致しました。

 男爵は聞き終わって、再び名刺の表を眺め、
 「フム、横山長作、嘗(かっ)て大佐の話にも、一度も聞いた事の無い名前だ。夫(それ)に大佐の許に、どうしても逢わなければ成らないと云う、急用の人が尋ねて来る筈は無い。何の用事だか其の方が聞き取って見よ。若し其の方に話されぬと云うならば、他日再び尋ねて来いと、そう言え。」

 命ずる折りしも、此の部屋へ宛(あたか)も鉄砲の弾の様に転がり込む、背低く体痩せて、非常にすばしこい一人は、是こそかの横山長作自身である。彼は大佐の病気と聞き、其の事の心配さに、取次ぎの返事を待つことが出来ず、自(みず)から上がって来た者と見える。男爵は勿論、之が横山長作だとは知らないので、唯呆気に取られ、咎める暇さえ無い間に、横山は早や大佐の寝台に縋(すが)り付き、

 「旦那様、長作で御座います。横山長作で御座います。貴方の至急の至急のお手紙に、何の御用かと驚いて、大事な用を捨て置いて参りました。旦那様。」
と揺すぶる様に叫んだが、哀れ大佐は死人に似て、此の言葉は少しも通ぜず、横山は又驚き、

 「ヤヤ、もう此の世の人では有りませんか。」
と云い、大佐の顔を指し覗くと、大佐も眼だけは此の者を認めたのか、僅かに眸子(ひとみ)だけ動かした。横山は我を忘れ、
 「オオ、嬉しい、まだ冥土(あのよ)の人では無い!何だって先アこの様な御病気に。」
と云い、又も寝台にしがみ付き、暫(しば)し離れる事が出来なかった。

 呆気に取られて居た男爵も、此の異様な人物の異様なる振る舞いを見て、さては大佐に長く召し使える、忠僕ででも有るのだろうか、今まで大佐の家に此の男の顔は、見えなかったがト、怪しみつつも、其の驚き其の悲しむ有様に、幾分の憐れを催し、

 「お前は大佐の何者だ。」
と問うと、長作は初めて寝台から離れて来た。
 「イヤ、貴方が常磐男爵ですか。お目の前も憚らず飛び入って誠に失礼を致しました。私は大佐の甥御で、船長立田と云う方に使われた、其の頃の第一立田丸船長心得横山長作と云う者です。先年船長立田が何者にか殺された後は、此の小部石大佐の外に、私の主人と云うべき人は無いのです。」
と云った。

 男「シタが何の用事で今日大佐を尋ねて来た。」
 横山は無言で、忙しく衣嚢(かくし)を探り、一通の手紙を取り出し、
 「何の用事だか私にも分りません。之を御覧下されば。」
と開き示した。
 男爵は一目で、其の手紙が大佐の自筆なるのを知った。文句は読む迄も無く、非常に短く単に、

 「この手紙を見次第に常磐荘まで直ぐに来たれ。一刻も猶予すると容赦は無いぞ。」
と記してある。其の日付を見れば、大佐が毒薬をに罹ったその夜の宵に出した者である。多分、大佐が男爵の室に行く前に、新夫人園枝から何事をか聞き、調査をさせる事があって呼び寄せた者に違いない。しかしながら、男爵はそこまで察することが出来ず、

 「成るほど、大佐から呼ばれて来たのか。併し大佐が何の用事でお前をその様に至急に呼んだのかは一向に分らない。」
 長「ハイ、私にはもっと分る筈は有りませんが、夫(それ)にしても此の様な手紙を出すとは、尋常な事では無く、何か至急の御用が有ったには極まって居ります。貴方に何かお心当りは有りませんか。」

 男「少しも無いが。」
 長「夫(それ)にしても、大佐のご病気は何の様な事から起こりました。一昨夜此の手紙を書く時には、これ程の御様態ではなかったでしょう。筆の跡も日頃の通り確かです。何か急に重く成った者と見えますが、それ是れを考え会わすと、大佐が私をお呼びなすった御用事は、何か深い訳の有る事では無いかと思われます。」

 未だ充分な探偵家と云うのではないが、流石は久しく其の道に身を置くだけ、早くも大佐の此の病、毒薬から来たのではないかと疑い、毒に罹(かか)る程ならば、必ず深い事情が有るものと疑っているようだ。

 この様に云う中にも、長作は大佐が何か一言でも、発するのではないかと、頻りに大佐の顔ばかり伺っていたが、一切の感覚を失った病人が、言葉を発する筈もない。男爵は此の挙動を察し、独り暫(しばら)くの間考えてみて、大佐の発病の原因を、此の男に隠して置くべきでは無い、だが一言一句に尽くすことが出来ないほど込み入った事柄なので、

 「イヤ、大佐の病は一種の急病とも云うべき者で、一昨夜の夜半過ぎから急に此の通り成られたのだが、委細は茲(ここ)では話尽くせない。お前は大佐の身の上に付いては、充分心配するべき筋合いの人だと見るから、別室で詳しく話して聞かそう。」

と云い、男爵は横山を従えて、我が居間へと退いたが、此の両人の談話こそ、益々恐ろしい波風を起し来る元になった。
 其の事は読む人は既に大凡(おおよそ)察したことでしょう。


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