巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune72

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.4

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 七十二

 横山は園枝と云う名に驚いて、暫(しば)し部屋の中を躍(おど)り廻るだけだったが、漸(ようや)くにして自ら鎮まり、又も元の席に帰り座した。
 「男爵、其の園枝とは婚礼の前に古松園枝と云った女では有りませんか。」

 男爵は尋常(ただ)ならぬ横山の様子を怪しみながら、
 「イヤ、古松園枝とは言わない。牧島園枝嬢と云った。」
 横山は又も躍りだす許(ばか)りの有様で、
 「牧島、牧島、其の牧島園枝と云うのが、即ち古松園枝と同じ女だろうと思われます。若し愈々同じ女ならば、真に天の助けと云う者です。」
と独り呑み込み喜んだが、男爵は其の事情を知らないので、

 「お前の云ふ事は何だか私には分らないが、お前は其の牧島園枝の素性でも知って居ると云うのか。」
 横「ハイ、先ず知って居る様な者です。其の次第は追って申し上げますが、夫(それ)より前に、先ず貴方が何して其の牧島園枝と婚礼したか、園枝が初めて貴方のお目に留まった時、園枝は何処に何して居たか、と云う事を伺いましょう。エ、男爵、婚礼前に牧島園枝は何をして居ましたか。」

 此の問には、我が恥を打ち明けようと覚悟した男爵も、答えることを快くは思わなかった。乞食同様に往来に飢え、凍えて居た者を拾い上げて妻にしたとは、実に男爵の身分には、有ってはならない内容だからだ。

 男「お前はその様な事を聞いて何とする。」
 横「イヤ、私の生涯の大目的は、実は貴方の此の御返事一つに繋がって居るのです。男爵には、仰(おっしゃ)り難い事が、お有りなさるかも知れませんが、是ばかりは何うぞ、有りの儘(まま)にお知らせを願います。唯私が願うばかりではなく、若し小部石大佐が健康で居らっしゃれば、大佐も必ず此の通りお願い致します。何うぞ是ばかりは有りの儘に。」

と只管(ひたすら)頼んで止まないので、男爵も隠す事が出来ず、また有りの儘に打ち明けることが、大佐に対する我が勤めかと思うので、今は少しも躊躇せず、今から三年以前、或る市区で、夜更けに、人の軒端に立ち、歌を謡(うた)って慈悲を乞う少女を見、頓(やが)て助け上げたのが即ち牧島園枝で、其の容貌から心栄えに到るまで、世の常の女より大いに優れた所があるのを見たので、遂に音楽の教育を施した末、我が妻に取り上げた事実を、畢生(ひっせい)《一生》の過ちだったと恥かしさを忍んで語り尽くすと、横山は聞き終わって、殆ど三拝九拝し、

 「真に有難い。もうこの様な有難い事は無い。天が此の横山長作を憐れみ、到頭船長立田の敵を、長作の手の中へ引き渡して下さった。エエ有難い、歌を謡(うた)って軒端に立ち、人の慈悲を願って居たと云えば、其の牧島園枝が、彼の古松園枝に違い無い。もう寸分疑うには及ばない。

 何でも古松園枝が、其の後緒所の興行場などへ雇われた事を突き留め、何れの興行場でも暫くにして断られ、終に乞食同様の境涯に落ちたのに違い無いと云う所迄は突き止めたが、其の後が分らなかった。アレ丈の綺量だから、何時までも乞食で居る筈は無く、誰かに救われただろうとは思ったけれど、小部石大佐の、唯一人の老友と噂する常磐男爵に救われて、男爵夫人とまで出世したとは、今の今まで知らなかった。もう是ほど嬉しい事は無い。」
と唯独り、口に任せて語るばかり。殆ど男爵の前をも忘れかのようであった。

 男爵は益々怪しみ、
 「お前は何をその様に喜ぶのだ。古松園枝とは、私の少しも知らない事だが。」
 横山は初めて我に返り、
 「イヤ男爵、貴方の救った、其の牧島園枝は隠して何も云わなかったでしょう。言わない筈です。言えば其の場で直ぐに貴方から愛想を尽かされる所でした。其の園枝と云うのは、顔が恐ろしく綺麗なほど心が恐ろしく汚れて居ます。人を騙すのが非常に巧みで、既に其の前に人殺しの犯罪に連類して居る女です。」

 園枝に愛想を尽かした男爵ではあるが、真逆(まさか)に園枝の前身に、人殺しの罪があるだろうと迄は思わなかったが、此の一言には又驚き、
 「何だ、それは本当か。」
 横「本当にも、小部石大佐の甥、私の主人、船長立田を迷わせて悪人の巣へ誘い込み、悪人に殺させたのが即ち其の古松園枝で、貴方に向い、素性を隠して牧島園枝と云った女です。」

 今まで自分が探った所に拠り、船長立田が園枝を見初め、園枝の父、古松と云う悪人の家に、連れ行かれて殺された実跡(じっせき)は、十分に明白な事なので、更に古松の其の家で、人を殺したのは、船長立田だけでなく、其の前にも同様の人殺しが有った。二度とも総て園枝が関係して居る事は、間違いない事実であることを、熱心に延べるのを、男爵が聞くに従って、益々園枝が容易ならない毒婦であることを知り、又我が身が、園枝に汚された、其の恥辱が愈々深いのをを想い、非常に苦しそうに顔を顰(しか)め、前額(ひたい)に脂汗を湛(たた)えて、

 「オオ、恐ろしい、私はもう聞くに堪(た)えない。何うかして呉れ。此の処分を何うかして呉れ。」
と打ち叫び、両の手に顔を隠して卓子(テーブル)の上に俯向いた。横山は更に語を継ぎ、

 「この様な女ですから、常磐男爵夫人と云う勿体無い地位に置かれても、初めは何の襤褸(ぼろ)も出さず、充分人目を瞞着(ごまか)したでしょうが、日を経るに従って、窮屈に堪えず、貴方の目を盗んで情夫を拵(こしら)えたのは当然です。既に情夫を拵(こしら)えれば、益々貴方が邪魔に成り、兼ねて人殺しに慣れている其の恐ろしい心を以って、貴方を毒殺しようと思ったのは怪しむに足りません。

 其の結果として、小部石大佐を死人同様にしたことは、私の身に取っては、実に二重のに敵です。男爵、此の処分はこの様に云う、横山長作が引き受けました。宜(よろ)しい。今から一月と経ない前に、毒婦古松園枝こと、牧島園枝を首切り台へ引き載せてお目に掛けます。」


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