巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune74

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.6

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 七十四

 全身不随の小部石(コブストン)大佐が、眼に涙を浮かべるのを見ると、大佐の感覚は幾分か回復して、目に横山の姿を認め、耳に横山の声を聞き分ける丈の事は、出来る様になったにものと知られる。

 もし大佐に、此の上に唯一言、その口を開く力を、得させることが出来たなら、横山も其の身の過ちを悟り、園枝夫人の身に罹(かか)る疑いも消え果て、波も風も無く終ることが出来たのに、悲しいかな、大佐が口を開く見込みは到底無い。
 大佐は此の上何年生き延びるとも、唯目と耳が働くだけで、其の外は口も手足も動く様にはならないという事は、確かなる医師の診断だからだ。

 是から横山が、倫敦(ロンドン)に引き上げて後の話は、暫く置く。
 茲(ここ)に、彼の皮林育堂は、全く常磐男爵を毒殺し果(おお)せたと思っていた、其の身の計略が外れただけでなく、一方には彼の怪しい宿屋の主人が、深く我が秘密を知り、今までの陰謀から、園枝夫人に罪も汚れも無い事をまで、訴へ出ようとする勢いがあり、前後に一時に敵を受けた有様で、流石計略に長けた悪人も、殆ど如何ともする事が出来ない。

 今夜にも再び常磐荘に忍び入り、男爵を殺し直せば好い訳であるが、昨夜の余温(ほとぼり)がまだ冷めていず、その様な事が出来る筈も無く、月日の経つ中には、自ずから男爵を殺す事が出来る、好機会も来る筈なので、気を永くして其の時を待つ外はない。

 唯其の時が未だ来ないうちに、彼の宿屋の主人に運動されては、万事が水の泡となるばかりか、我が身が却(かえ)って罪に落ち、再び世に出る事さえ、叶わない境遇にもなってしまうので、何事をさて置いても、先ず宿屋の主人を亡ぼさずには置けない。

 夫(それ)にしても彼の主人は何者なのだろう。其の身分から探らなければ、亡ぼす工夫も定め難い。若し其の身分を探った上、我が力で亡ぼし難い非常な剛敵と分れば、其の時こそは仕方が無い、彼を味方に引き入れて其の害を免れるか、或は危うきを冒し、咄嗟(とっさ)の間に、男爵を殺し直すか、此の二つに一つを選ぼうとこの様に決めた。

 それで彼皮林は、更に行商人の儘(まま)の姿で、村の家々に入って行き、少しづつ彼の宿屋の事を聞くと、宿屋は昔から屋号を「田舎家」と称して此の村に在り、村人を初めとして、此の村に来る人の多くは、此の「田舎屋」の酒を呑んでいるが、その得意先は常磐男爵家の召使等で、其の厩(うまや)係から庭園係の者は勿論、座敷向きに使われる僕(しもべ)までも、毎夜此の店に来て、或は酒を呑み、或は骨牌(カルタ)などを弄(あそ)ぶ為、常磐家の中の秘密は、大抵此の店で分るとの事である。

 次に其の主人は何者だと聞き探ると、昔から此の店を持って居たのは、この土地の人だが、此の前の代になって、息子が相場事などに手を出した為、多くの借金を作って、営業を続ける事が出来なくなり、仕方なく店を売る事にして、新聞に広告を出して置いたところ、今から僅か一月以前、其の広告を見て尋ねて来て、早速高値で買取ったのが即ち今の主人である。

 先の主人は店を売った其の金で、米国に移住すると称し、家族を纏(まと)めて出立した儘(まま)、其の後の消息は無い。今の主人は、名を十口松三とやら呼ぶ様に聞くが、何の所の人で、何の金を以って此の店を買ったのかは、知る由も無く、当人の言葉では、多年船乗りを業として蓄えたものだと云うが、此の土地に来てから、未だ僅かに一月ばかりの事なので、詳しくは知らないとの事である。

 皮林は日暮頃までに、是だけは聞き集めたけれど、是らは総て平々凡々の事柄で、彼を亡ぼす我が工夫を作るのには足りない。新聞の広告を見て来たと云うので、今まで何の所に住んで居たのかを知る方法も無い。

 それに、其の自ら船乗り業で金を溜めたなどと言う事は、己(おのれ)の身の上を、容易に人に探られない為に設けた履歴に違いなく、事柄は平々凡々だが、怪しめば随分怪しまれる所は多い。船乗りの如き、荒い仕事に身を委ねた者が、たとえ金を溜めたとしても、縁もゆかりもない、この様な片田舎に身を定める筈はなく、酒店を開くにしても、多く水夫達が上陸して、活発な仕事の有る港場などに選び定めるのが当然である。

 此の者は或は何か常磐家に目指す所があって、殊更に常磐家の秘密を知るのに容易な、此の店を買ったのではないかと、様々に思い廻らすうちに、早やくも夜に入り、宿を定めなければならない時刻とはなったが、再び「田舎屋」に泊まる気持ちは無いので、凡そ二里ほど離れた隣村に行き、宿を取ると、此の宿の主人は彼の十口松三と云う恐ろしい主人とは違って、見た所全くの田舎者なので、顔の絵の具を見破られる恐れも無いと安心して、案内に従い、二階の一間へ打ち通ると、茲(ここ)には既に、先客が有ると覚しく、卓子(テーブル)の上に、食事の用意が整えて有り、皮林は怪しんで、其の仔細を問うと、主人は気の毒そうに、

 「イヤ、私共の様な田舎の宿では、部屋一間に客一人と云う事は出来ません。合宿の有るのをご承知の上でなければ。」
と答える。皮林は少し迷惑に思ったが、外に行く可き宿も無いので、
 「爾(そう)とは知らなかったが、仕方が無いワ、併し合宿の客は何う云う人だ。」
 主人「唯だ一通りの旅人ですが、ナニ合宿と云っても、其の方と貴方とを、一緒に此の部屋に居て貰ふ訳では有りません。其の人は別の室に居るのですが、唯だ食堂の都合に由り、茲で食事だけ一緒にして頂くだけです。」

 皮林は安心し、
 「爾(そう)うか、食事だけ一緒なら何の様な客とでも我慢は出来る。私も非常に腹が空いているから、直ぐに食事にして貰おう。
 主人は心得、
 「食事は直ぐに差し上げますが。ドレ、もう一人のお客を是に呼んで来ましょう。」
 この様に云う折しも、廊下に聞こえる足音と共に、此の部屋に入って来る一人があった。主人は其の人に向って、
 「オオ、是から貴方を呼びに行く所でした。サアどうか食事は此の方とご一緒に。」
と云う。

 皮林はこの時室の隅で、少しばかりの我が荷物を降ろす為、俯向(うつむ)いていて、未だ此の人の顔を見ないうちに、此の人が先ず声を発し、
 「オオ、茲(ここ)で貴方に逢うとは幸いです。」
と云う。皮林は唯この声を聞いただけで、ピクリとした。
 この人は誰だろう。


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