巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune75

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.7

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 七十五

 皮林育堂と同じ宿に泊まり合わせ、今や皮林と共に食事を始めようとして、此の部屋に入って来て、皮林に声を掛けた其の客は、抑々(そもそ)も何者だろう。
 皮林は其の声を聞いて、早やギクリと打ち驚き、我が顔を上げて見ると、是こそは昨夜泊まった「田舎屋」と云う旅店の主人、彼の十口松三である。

 我が顔の絵の具を見破り、我が企計(たくらみ)をまで見破って、異様に我が身を強談(ゆす)ろうとする様に脅(おびや)かした、彼の恐るべき剛敵である。此の敵に逢うのが恐ろしいからこそ、再び「田舎屋」に泊まるのを避け、故々(わざわざ)此の村まで来て宿を取ったのに、此の家で又も此の敵、此の十口松三に逢うとは、これほど意外な事は無い。だからと云って最早や逃げ出す事も出来ない場合と皮林も思案を定め唯曖昧に、

 「イヤ貴方に茲(ここ)で逢うとは意外です。」
と答えるのみ。此の家の主人は此の様を見て、オヤお二人とも予(かね)てからの知り合いですか。其のお二人が図らず食事を共にするとは、是だから旅は面白いのです。」
と言い、其の身は何か料理を運んで来ようとする様に退いた。

 後に残され、十口松三と差し向かいとなり、皮林は不愉快で仕方が無かった。殆ど腹立たしい程に顔を顰(しか)め、無言で下を向いて食事を初め、十口の顔には目を注がなかったが、之に引き替え、十口は心浮き立って非常に面白い様子で、満面に笑みを浮べ、自(み)ずから酒を波々と飲み干して、皮林の硝盃(コップ)にも注ぎ、

 「時に皮林さん、貴方は今朝、其の姿で又常磐家へお出で成さったが、愈々常磐男爵が昨夜の中に死んでしまった事を突き止め、定めし安心した事でしょう。もう何もその様に鬱(ふさ)ぐ様な心配はないでしょう。近日に常磐家の財産が其の甥の永谷礼吉に移れば、貴方は約束の通り、永谷から莫大な礼金を得て、充分の金持ちに成れるではありませんか。其の積もりでマア一杯お呑みなさい。」
と云う。

 アア此の言葉の、何と皮林に向って無礼な事か。それに彼がくどくも常磐男爵をば昨夜の中に死んだ様に言うのは、初めから其の死んでいないのを知っていて、皮林を愚弄して、汝の企計(たくらみ)は破れた。汝の一命、今は我が手の裏に在りとの意を遠回しに言い聞かせるのも同様なので、皮林は腹立たしいこと限りなかったが、何と返事のしようも無かった。

 十口松三は付け入って、更に此の事を言い続ける様子だったが、此の時又も以前の主人が入って来たので、忽ち言葉を世間話に移した。皮林も主人の手前を憚(はばか)り、唯だ尋常に打ち解けたが、聞くに従い、心益々沈み込み、碌々(ろくろく)返事も出来なかった。十口は唯口から出任せに、主人に向って、皮林を己(おのれ)の多年の親友の様に見せ掛け、根も葉も無い事を語り出で、

 「ネエ主人、人の身の上と言う者は、何と分らない者じゃないか。此の皮林君なども、元は倫敦(ロンドン)で飛ぶ鳥を落とす程の豪家であったが、今は見られる通り、旅商人にまで零落(おちぶ)れた。

 それでも何処かに昔の風が残っていて、言葉付きなども紳士らしいところがあるワ。今でも此の方の甥は、皮林育堂と言って紳士の交際を続け、現に隣村の常磐荘へ客分に招かれて来ている程の身分だ。此の方は其の甥を頼り、どうか常磐家の勝手向きへ、少しの品物でも売り込みたいと、故々(わざわざ)常磐家まで尋ねて行ったけれど、其の甥の皮林育堂と云う奴が、身分に似合はない薄情な男で、年寄った此の伯父を、相手にもしないと云う事で、夫(それ)で此の通り欝(ふさ)いで居られるのだが、何と其の皮林と云う奴は憎いじゃないか。」

などと言いつつ、時々皮林の顔をジロジロと眺めて、夫(それ)とはなく嘲(あざけ)ると、主人は唯聞いた丈を真実に思い、非常にも気の毒そうに返事して、
 「オオ、此の旅商人が元は其の様な方ですか。」
などと嘆息して立ち去った。皮林は忌々しさに我慢ができず、主人の去るのを待ち兼ねて、キッと決心した顔を上げ、言葉までも改めて、

 「今夜貴方が此の宿で私と落ち合ったのは偶然ですか。夫(それ)とも貴方が落ち合う様、前もって仕組んで置いたのですか。」
 十口松三は敢(あ)えて騒がず、
 「自分で隣村へ宿屋を開いて居る私が、偶然に此の宿へ泊まりに来る筈は無い。多分貴方が今夜は私を恐れ、「田舎屋」へは泊まらないだろう、そうすれば此の近辺で、此の家より外に泊まる所は無いとこう思ったから、私は此の顔を未だこの家の主人に知られて居ないのを幸いに、旅の積もりで泊まりに来たのです。イヤサ貴方に逢いに来たのです。」

 明らかに言い切るとは、益々もって恐るべき剛敵である。一筋縄では行かない奴、何とか非常の手段をもって片付けなければと、皮林は我知らず衣嚢(かくし)をさぐり、衣嚢の中で窃(ひそか)に毒薬の瓶を握るが、十口松三は非常に真面目に声を潜(ひそ)め、

 「内々貴方へ忠告して置く事が有ります。貴方が若し毒薬の瓶を衣嚢(かくし)の中へ入れたままで捕縛されると、其の毒薬が最も恐るべき証拠となり、貴方は何の言い開きも出来ない事になりますぜ。今夜もう一度其の毒薬を用いるにしても、用いた後は直ぐに捨ててお仕舞いなさいよ。」
と云う。

 アア、彼、何という眼力だろう。皮林が心の底に思う事を一々顔色から読む事が出来るのだろうか。皮林は此の一語に肝を奪われ,
顔に塗った其の絵の具さえ、変色するかと思うほど驚いたが、漸(ようや)く自ら心を鎮(しず)め、毒薬の瓶をそっと放して、窃(ひそか)に其の手を又衣嚢から抜き出して、非常に苦しそうに空笑いし、

 「貴方は何を仰(おっしゃ)るか。私には少しも分りません。」
と澄まして言った。
 澄ました顔の皮一重の底は、二人共、非常に激しく戦っているのだ。


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