sutekobune76
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 前編 涙香小史 訳
七十六
この様な所へ又も主人が入って来たので、二人は今迄の話しを止め、何気なく食事を続けることとなったが、其の中にも十口松三(まつぞう)は絶えず心が浮き立つ様に、口任せに様々の事を言い、自ら面白そうに打ち笑いながら、話の中には、時々皮林の犯罪を、他の事に托して持ち出し、皮林を窘(いじ)める様に仄(ほの)めしたが、皮林は此の剛敵に、我が命まで握られて居るのも同様な事態になったかと思うと、食も殆ど咽喉を通らず、勿論此の敵と負けず劣らず雑話を闘わせる勇気は無く、益々静かに沈みこむばかりであった。
頓(やが)て食事が終わりに至ったので、十口松三は此の上も無い上機嫌で、
「皮林さん、折角久し振りに逢ったのを、此の儘(まま)別れるとは少し惜しい事です。幸い私の部屋には最上等の葉巻煙草が有りますから、私と一緒にお出でなさい。寝る刻限まで二人でそれを燻(くゆ)らせながら、昔話でもしましょうよ。」
と云う。
皮林は辞退もする事が出来ず、且つは恐れる中にも、彼が何故この様に、我に逢おうとして、この宿に来たのだろうと、怪しさにも耐えられなかったので、緩々(ゆるゆる)彼の心の底をも探る積りで、早速此の言葉に応じ、
「では貴方の部屋へ行きましょう。」
この様に言う中も、更に思うに、此の十口松三は、到底生かして置くべき奴では無い。我を其の部屋に招いて行こうとするのは、大胆不敵な振る舞いで、あくまでも我を侮(あなど)り、部屋の中で差し向かいになったからと言って、何事をも仕出かす事は出来ないと、嵩(たか)を括(くく)ってする事に相違無いけれど、彼が我を侮るだけ、我に取っては幸いである。
充分侮らせ、安心させ、其の隙にこそする事があるだろうと、窮鼠却(かえ)って猫を食む譬えに洩れず、その決心を固めると、此の時松三は早や廊下に出て、
「サア、主人、一寸其の手燭(てしょく)を見せて呉れ。大層暗い廊下だぞ。」
と云った。皮林は其の後に続いて出たが、心の中に一物あるので、
「オオ、手袋を忘れて来た。」
と言って独り廊下から我が部屋に引き返し、荷物の中から鋭い小刀を取り出して、之を衣嚢(かくし)の底に収め、再び廊下に出ると、松三は主人と共に、遥(はる)か廊下の彼方で皮林を待っていた。
松三の部屋は廊下の突き当たりにあり、是から主人を去らせて、皮林は松三と共に是に入り、彼の指し出す椅子に座ったが、松三は悠々と落ち着いて、急に話を始めようともせず、皮林は憎いと思う我が心を包みもせず、
「貴方は何で私を此の部屋へ連れて来たのです。イヤサ私に逢う為に、故々(わざわざ)此の宿に来たと仰ったが、私に何の用事があるのです。」
松三は依然として好機嫌で、
「問わなくても大抵は、分かっていましょう。貴方の一命は既に私に握られて居るのだから、以後私の言葉に、充分従わなければならないと言う事を、承知させる為ですよ。何うです、貴方の様な悪人に、イヤサ何もかも好く知って居る人に、管々しく説法する迄も無い。是からは私の言う事に一々従いますか。」
実に松三の言う事に一々従う外はない。彼に如何なる難題を出されるとも、之に従わなければ、覿面(てきめん)に其の罰を受ける事は確実である。しかしながら皮林は心に決する所があるので、
「とんでもない、貴方の言葉に一々従うなぞとは、どの様な訳だか、少しも私には合点が行きません。」
松三は相も変わらず笑い顔で、
「それは素人に言う言葉です。私に言う事では有りますまい。常磐男爵が無事に生きて居て見れば、私の一言で貴方は、身の置き所も無い人です。第一男爵が園枝夫人と貴方の間に、少しの不義も無い事を知れば、今まで園枝を疑った事は済まなんだと思い、以前に輪を掛けて園枝を愛しーーー。」
皮「イヤ、皆まで仰るな。男爵の心は、もう何事が有っても、再び園枝を愛する事が出来ないほど、恨みの極点まで達しています。」
松「左様サ、園枝夫人を再び愛する事は出来ないにしても、貴方を恨む事は出来ましょう。私の考えでは、男爵が再び園枝を愛し、夫(それ)が為に又遺言書を書き直し、永谷を勘当して、貴方の今までの企計(たくらみ)を、水の泡にする時が来るだろうと思いますが。
併し夫(それ)は他日の事、貴方が決してそうならないと仰(おっしゃ)れば、随分爾(そう)してお目に掛けますけれど、今云い争そうには及びません。唯茲(ここ)で貴方に好く承知させたいのは、毒薬の事柄です。小部石大佐を生涯の不具者にした、アノ毒薬が、貴方の手から出たばかりか、貴方が自ずから旅商人に化け、常磐家へ忍び込んで、男爵の硝盃(コップ)へ垂らし込んだと云う事が分れば、貴方の身は何うなります。」
皮林は空とぼけて、
「毒薬は全く園枝夫人の仕業でしょう。」
松「フム、貴方は証拠が無いと思い、その様な事を云うが、私の手には確かな証拠が有りますよ。」
証拠のあるべき筈はないとは思えども、猶(なお)不安心に耐えられず、
「証拠とは何の様な品です。」
と何気ない振りをして問返した。
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