巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune81

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.13

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 八十一

 小刀を手にしてそろそろと松三(まつぞう)の背後に忍び寄る、実にこれ危機一髪、松三の命は唯一転瞬の間にあり。松三はそうと知ってか知らないでか、振り向いて、皮林皮林育堂の此の振る舞いを、見ようともせず、差し俯向いて窓の下を眺めるばかり。

 皮林は何を躊躇するのか、唯一足、唯一打ちの此の期に及び、進もうとしても進む事が出来ず、足を止めて又四辺(あたり)を見廻し始めた。アア人は少しの事の為、度胸を奪われる事がある。松三の余りに大胆な振る舞いに、皮林は気を呑まれたのだ。

 彼、悪事にかけては、一刻さえも猶予する男ではないのに、松三が我に背を向け、今殺せと言わない許(ばか)りに仕向けるのは、何か謀計(たくらみ)が有る為に違いないと思い、何となく空恐ろしく、我にもなく四辺(あたり)を見廻すこととなった。

 松三は猶(なお)も窓に首を出した儘(まま)で、見向きもせずに言葉を続け、
 「ネエ、皮林さん、今茲(ここ)で一思いに私を刺し殺し、爾(そう)して壁の蔦鬘(つたつる)を其処此処(そこここ)を折り、其の上に私の衣嚢(かくし)にある、少しの金子を攫(さら)い取り、知らぬ顔で部屋に帰って寝て仕舞えば、明朝給仕の者が私の死骸を見出し、必ず外から這入った泥棒の仕業だと思います。
 貴方も外の人々と共に仰天した風さえすれば、細い稼ぎの旅商人が、人を殺すほどの大胆な事をしようとは、誰も思い附く事では有りません。どうです爾(そう)じゃ有りませんか。」

と益々愚弄する様に言うのには、気を呑まれていた皮林も、此処に至って、最早躊躇することが出来ず、「己れ」と一息我が心を励まして、アワヤ飛び掛かろうととする間際に、松三は宛(あたか)も、可笑しさに我慢が出来ないと言った様に、大声で打ち笑い、静かに窓から身を引いた。

 この様な場合に笑い声とは、実に燃える火に、水を注ぐ様なもので、僅(わず)かに力を発しようとした皮林の奮発は、又之がため消し止められた。何を松三が笑ったのかは、皮林の知る所ではないが、兎に角此の笑い声は皮林の耳に、地獄の底に響く声より、もっと物凄く聞こえた。

 若し松三が怒った声を張り上げて、振り向いて来たのならば、皮林は少しも怯(ひる)まないのみか、却(かえ)って一層の力を得、其の儘(まま)飛び掛って、一突きに突き殺したことだろう。又此の笑い声が、ただ一分、ただ一秒遅かったならば、其の前に皮林の持つ小刀は、既に松三の背筋深く刺し貫いていただろう。

 松三の運の強い所か、はたまた彼の掛け引きの巧みなところか、其の声は、皮林の小刀より、僅(わず)かばかりの先を越していたため、皮林は全く挫(くじ)け、其の張り合いも抜け尽くしたのだ。

 この様な時に、松三は窓から退き、此方に向いて来たので、皮林は我にもなく、再び小刀を衣嚢(かくし)に収め、彼に見咎められないよう、元の様に椅子に凭(もた)れた。松三は、満面に笑みを浮べながら、皮林の前に立ち、動きも震えもしない声で、

 「アハハハ、皮林さん、私がこの様に迄するのに、到頭貴方は私を殺す事が出来ませんでしたネ。是では此の後、何の様な好機会が有ろうとも、私を殺す事は思いも寄りません。貴方は智慧こそ私に優って居るでしょうが、悪事の場数はまだ私の半分も踏んで居ません。到底私の先を越す事は出来ず、常に私の道具と成り、私の下を働いて居なければなりません。

 再び私を殺そうなどと、無益な心配をしなさるな、是でもう貴方は、否でも私の言う通り倫敦(ロンドン)へ逃げ帰り、静かに私の指図を待つ外は有りません。今でも貴方を制するか、将(は)たまた貴方に制せられるかと、多少は心配しましたが、私はもう心配は致たしません。貴方は否応無く私の道具に成ったものと私は安心して、自分の運動に取り掛かります。」

と何の遠慮も容赦も無く、真に己の手下でも扱う様に、無下に手軽く扱うのに、皮林は益々呆気に取られるばかり。心の中に非常な悔しさを包みながらも、一語をも返すことが出来なかった。
 松三は愈々(いよいよ)安心の体を示して、椅子にドシリと腰を卸(おろ)し、己が片足を片膝の上に引き載せ、

 「こう貴方と私の位置が極まって見れば、もう外に言う事は有りません。ただ先刻、話掛けて中止した、かの毒薬の成り行きだけは、念のために貴方に聞かせて、お別れに致しましょう。私は貴方の化学試験室から盗み出した、其の「出来上がり」の毒薬を以って、或る化学師の商議所に行き、分析して貰いました。化学師は驚いて、これは化学社会でも未だ用いた事の無い、最も進歩した毒薬で、中々一通りの研究では、製することは出来ない程、種々の学理を応用したものと見えるが、何処の先生が製したのだと問ました。

 それはまだ答えられない。近日薬剤雑誌へ出すそうだから、それまでは秘密にしなければならないと言い瞞(くる)め、更に印度や阿弗利加(アフリカ)の地名のある、他の瓶を出して試験して貰いますと、全く是等を元にして製したものだと、言われました。」

 「サア是だけでは別に面白くも有りませんが、ただ面白いのは、小部石大佐の飲んだ其の残りの毒薬を、今常磐男爵が其の道の技師に分析させているのです。其の分析の結果が貴方の製した毒薬と同じ事と分るのは最早遠くもないでしょう。其の時になって誰が園枝夫人を疑いましょう。

 園枝夫人は化学師でなく、自分でその様な進歩した毒薬を製する事は無論出来ず、貴方の所為と云う事は、其の他様々の事から分かって来ます。依って私の忠告する所は、是から直ぐ倫敦(ロンドン)へ逃げ帰り、一切の証拠を押し隠して、何処へなりとお隠れなさい。私が黙っている間は、先ず貴方の身は無難でしょう。勿論貴方が何処へ逃れようとも、私だけは貴方へ見張りを付けて置きますから、貴方の隠れ場を知って居て、用事の有る時は手紙を以って指図を与えます。サア夜も意外に更けましたから、是を当分のお別れと致しましょう。」

 この様に言って、自ら椅子から立ち、早や追い払う様にした。皮林は殆ど夢中に夢を見る心地だったが、其の中にも、我より上手の悪人に逢った事だけは、明らかに心中に理解したので、何とか此の者を、取りおさえる工夫をしなければならないと、空しく心を痛めたけれど、容易に思案が浮ぶはずもないので、部屋に返って緩々(ゆるゆる)と考える以外に無いと、悔しさを胸に畳み、其の儘(まま)帰ったが、是から両悪人の運動は、如何の辺に向うのだろうか。


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